| 眠る月(3) 扉をノックする音に目を覚ました。先ほど寝入ったばかりで、それも明日の早朝に家を出るのだから、もっと寝ていたかった。何度もノックの音がするので、仕方なくベッドから起き上がりよろよろと玄関に行った。 誰? 私だよ。 母親の声だった。溜息をついて言った。 何だよ。 ちょっと話がしたくてね。 だから何だよ。こっちは眠いんだよ。 遠くから来たんだから、入れておくれよ。 ちぇっ。 扉の鍵を解くと、母親はすぐに扉を開けて中へ入ってきた。僕は眉をひそめて、母親を見た。 何だよ。 まだ寝てたのかい? うるせえな。早く用件言えよ。 これから、一緒にオペラでも見に行かないかい? 卓君のチケットも買ったんだよ。 余計なことしやがって。 母親は情けなそうな顔をして目をしょぼしょぼさせた。僕は深く溜息をついた。 卓君は自分のやりたい事をやってるでしょう。母さんね、それは良いことだと思うよ。 僕は黙って母親を見た。 洋くんに誘われて、書くお仕事を手伝ってるんでしょう? やりたい事をするのは良いことよ。 言うべき言葉がなくて、母親を見つめた。 母さんもね、やりたいことをやろうと思って……。今まで、お仕事ばかりしてきたでしょう、卓くんを見習って自分の好きなことをしようと思ってね。 ふうん。 母さんはね、本当はオペラが好きなんだよ。本当はオペラ歌手になりたかったんだよ。一緒にオペラでも見に行かないかい? 俺は忙しいんだよ。父さんと見に行けばいいだろ。 父さんも忙しいよ。今朝も急患が来たんだから。母さんも手伝わなきゃいけないんだけど、でもね、医療だけが仕事じゃないってお父さんを振り切って出てきたんだよ。 まずいんじゃねえのか。 叔母さんがやってるよ。母さんも本当はもっとオペラを見たかったんだから、卓君、一緒に行こうや。 僕はまた溜息をついた。 友達とでも行けばいいだろ。 家族なんだから、コミュニケーションしなくっちゃ、卓君とは随分と話をしていないよ。 話ならここで聞くよ。 母さんもやりたいことをするつもりだよ。仲間じゃあないの。 と母親はオペラのチケットを二枚差し出した。 そんなのじゃないんだよ! 急に不愉快になって、母親を外に押し出そうとした。 なんてことするんだい。高いチケット買ってきたのに。 誰も頼んでないよ。一人で勝手に行けばいいじゃないか。俺は眠ってないんだよ。睡眠の邪魔するなよ。 どうして眠ってないんだい? 身体でも悪いのかい? 母親が心配げな顔をしてこちらに近寄ってきたので、僕は退いて言った。 もう帰ってくれよ。邪魔だよ。 母親は情けなさそうに目を瞬いた。話をするのが億劫になり、玄関の扉を開けて、外へ出るように促した。母親がゆっくりと外に引き下がったと同時に、扉を乱暴に閉めた。内部から鍵を掛けて、部屋にもどり明日の朝のためにトランクを出した。眠気が襲ってきたのでベッドに横になった。明日の早朝まで時間はたっぷりあるものの、寝過ごしてはならないと時計をセットした。 すぐに意識が遠のき、闇と静けさの奥底へと滑り落ちていった。何時間眠っただろうか。時々起きては水を飲んだ。まどろみの中で、衣類などをトランクに詰めては、また眠り込んだ。翌朝の目覚まし時計のベルが鳴るまで、ずっと眠り続けた。 夜はまだ明けていなかった。 朝霧が降りていて、凛とした大気が頬をかすめる。人通りはほとんどなく、店は閉まり人気のないビルが立ち並んでいる。静まりかえった暗い街の通りやビルの間に、薄白い霧が漂っている。 沙夜と待ち合わせをした駅に、約束の時間よりも早く着いた。公共の場所の人工的な明るさが、暗く湿った街にぼうっと染みている。閑散とした構内に、始発電車のアナウンスが響いている。段ボールにくるまった浮浪者たちはまだ寝ていて、人の行き来はほとんどない。 切符を二枚買い、トランクを柱の前に置いてその上に座る。もうあのマンションには帰りたくない。興奮してほとんど寝ていないというのに、意識は冴えている。沙夜とのこれからの事について考える。他人の目に映し出されていた僕と彼女の姿は、これまでの環境を捨てる事で、まったく違ったものになるだろう。変わらないのは、僕と沙夜の目に映るお互いの姿だ。二人の間の、自分と沙夜を気に入っているし、彼女も同じ気持ちだろう。 街を覆っていた霧が薄くなり、空が明るくなってくる。駅前の売店のシャッターが上がり、通行人もまばらに行き交い始める。 もう約束の時間だ。 沙夜はまだ来ない。 今にも彼女が駆けつけてきそうで、通行人の多くなってきた構内や駅前広場など、視界に入るものを隅々まで眺める。 とうに時間は過ぎている。 どうしたんだろうか、朝寝坊か、始発電車が遅れているのか、事故にでも遭ったのだろうか、まさか怖じ気づいて気が変わったとか……。だが、いい加減な気持ちで僕と約束したとは考えにくい。 もうかなりの時間が経っている。 後ろの柱にもたれて、人々の気ぜわしく歩く脚を見た。交互に前後する無数の節足動物が、あらゆる方向に重なって動いているみたいだ。 轟音が頭上に響き、柱や地面がわずかに震える。電車がホームに入ってきたのだ。すでに電車のホームへの出入りや、道路の自動車の行き来や通行人は増えている。構内に響く人工音のようなアナウンス、人々の話声や足音などの騒音が、耳に押し寄せてくる。 とうに一時間は過ぎている。 タクシーが広場に着いてドアが開き、黒く長い服を着た女の人が出てくる。とっさに柱から身を起こす。だが、沙夜ではない。 舌打ちをして、檻に閉じこめられた犀のように行ったり来たりする。沙夜に電話でもしたかったが、彼女は住居も電話もすべてを捨てて来るから、その必要はないと言って教えてくれなかった。このままいつまでも待っていろというのか。沙夜はどうしたんだ。 苛々としてくるが、彼女がふいに姿を現しそうで、歩く人々を注意深く見る。 長い髪の女性の後ろ姿を見かけると、つい目で追ってしまう。 ズボンのポケットに両手をつっこみ、ぶつぶつと不平を言いながら、トランクの上に座る。 足を組んで、煙草に火をつける。人間の数多くの脚が忙しなく左右前後に歩いていた。 この時、遠くから、大きなトランクを持った沙夜が走ってくるのを見た。長い黒衣に瞳を模した豪華なペンダントが揺れている。先ほどまで怒っていたのに、つい嬉しくなって手を上げた。沙夜も笑って手を振った。彼女は雑踏の中を息を切らして走ってきた。僕の前までやってくると、気忙しく言った。 遅れてごめんなさい、早く行きましょう、早く。 う、うん。 切符を買わなくっちゃ。 もう買ったよ。 僕は二枚の切符を見せた。沙夜は僕の手を取って走って改札口に向かう。どうしてそれ程急いでいるのかわからなかったが、僕も急ぎ足になった。 沙夜のポシェットの中から携帯電話の鳴る音が聞こえた。急に彼女は立ち止まり、僕の手を離して携帯電話を取り出し耳に当てた。彼女の表情がこわばり、眉間に皺が寄った。何ですって、と苛ついた声を上げると、耳を押しつけるようにして相手の話に聞き入っていた。話が終わり電話を切ると、沙夜は立ち止まったまま俯いていた。僕は問うた。 どうしたの? 彼女は顔を上げて僕を見た。僕の顔を見つめて言う。 先に行ってて、お願い、後から行くわ。 沙夜はこの時、始めて自分の携帯電話の番号を教えた。僕は急いで書き留め、自分の携帯電話の番号も紙切れに書いて彼女に渡した。彼女は微笑んでそれをポシェットにしまった。彼女は首からペンダントを外して、僕に手渡した。瞳孔を模した小石の周りを粒状の珊瑚やトルコ石が渦状に取り巻いているものだった。大きなペンダントが、ずっしりと手の平に乗った。 後で行くから、これ持ってて。 あ、うん。 ペンダントを握りしめて、沙夜を見つめた。 私を忘れないでね。 だって、後で来るんだろう。電車の中でまた電話するよ。 僕は切符を彼女に手渡した。 遅くなっても絶対行くから、ペンダントを持って待っててね。 と彼女は急いでトランクを手に持ち、小走りで行き交う人々の間に紛れ込んでいった。雑踏の奥へ、黒衣の後姿が消えていく。 この時、後方から二人の私服の男が駆けてきて、慌ただしく僕に話しかけた。 黒い服を着た女を見なかったかい? えっ? 僕は戸惑った。この男たちは何者なのか、沙夜のことを言ってよいものかどうか、困惑した。男たちは、警察手帳を見せた。 黒い服を着た女と君が、たった今ここで話をしてるのを見た人がいるんだよ。 その女がどうかしたのですか? 凶悪な犯罪に関わってるかもしれないんだ。 そうは見えませんよ。 君とその女とはどういう関係だい? ちょっと署まで来てくれるかね。 道を尋ねただけですよ。 女はどこへ行った? さあ、あっちかなあ。 僕はあらぬ方向を指差した。男たちはそちらの方向へ、走り出した。彼らが見えなくと、沙夜の携帯電話の番号をプッシュした。――電波の届かないところにいるか、電源が入っていません……――僕は通話を切った。 ペンダントをハンカチに包んで、ショルダーバックの奥にしまった。トランクと切符を手に持ち、改札口に向かった。人々の列に加わると、後から男にまた声をかけられた。 ちょっと話があるんだけど。 は? 見ると、今度はテカテカと艶光りする赤いシャツを着た、日焼けした若い男だった。 何ですか? ちょっとこっちに来て。大事な話。 男は酒臭い息を吐いて、低い声で言った。腫れぼったい一重瞼の奥から、険のある黒目が僕を睨んでいる。人々の列から離れて、男に従った。沙夜に関することかもしれない。先ほどの刑事たちのことがあったので、その可能性は高い。 駅の構内から出て小路に入った。まだシャッターの閉まっているパチンコ店や飲み屋を通り抜け脇道に逸れてガード下にきた。男の態度が急に変わり、怒りに満ちた声で、にじり寄ってきた。 てめえだな、ポリ公に言いやがったのは。 いきなり男のビンタが飛んできた。 何すんだよ。 手を頬にあてがい、男を睨みつけた。 なんだとお、落とし前をつけてやる。 男は呻るような声で言い、拳を大きく振り上げた。避けようとしたが、頬を殴打され、衝撃とともに地面に投げ出された。頬が痛いというよりは、むしろ痺れて熱い。意識をはっきりと保つために目をしばたたき、両手でこめかみを押しながら首を振った。それからゆっくりと深呼吸をして言った。 俺は何も知らないよ。 なんだとお、なめんじゃねえよ。 男は大きな舌打ちをして、僕の胸元をつかみ上げた。ショルダーバックを守ろうと反射的に抱えると、頬に勢いよく拳が飛んできて命中した。地面に転がった。手で口元に触れると、血が流れているのがわかる。頭がふらふらして起きあがれない。打ちどころが悪かったのだろうか。地面が左右にゆらゆらと傾斜して見える。駅の方に行く通行人が恐怖と好奇の入り混じった面持ちで、僕たちを警戒して避けながら通り過ぎていく。 男は僕の後首の襟をつかんで言う。 百万円出したら許してやるよ。俺のボスだったら殺すところだぜ、ありがたく思えよ。 僕は急に恐ろしくなった。冷や汗が出てきて、掠れ声で言った。 持ってないよ。 馬鹿! カード出せ。 それはできないよ。 男は僕の後髪をつかみ膝小僧で下腹部を突き上げた。あまりの激痛に腹を押さえて屈む。すぐに彼の石のような拳が力一杯振り下ろされ僕の背中を直撃する。内臓がけいれんしてしまったかのように呼吸ができなくなり、地面に倒れて呻き声を上げた。 男は猫の後ろ首をつかみ上げるように、僕の襟を力ずくで上方に持ち上げる。 ショルダーバックに入ってるんだろう、出せやい。 男はショルダーバックを僕の腕からもぎ取ろうとした。必死にバックを掴んだまま頭を振る。 警察を呼ぶぞ。 なんだと! 握り拳が僕の頬に再度命中した時、鋭い破折音が頭の中に響いた。細い針金で顎から後頭部まで貫かれたような、鋭角的な激痛が走る。思わず声を出して地面に倒れる。唸りながら海老のように身体を曲げた。電車の走る轟音が、頭上に響いた。微細な振動が地面から身体へ伝わってくる。大きな音が身体の上を通り過ぎていく。 男も僕たちを取り巻く通行人も、みんなが芝居をしているようだ。僕を見ながら男の後ろを往来している人々も、向かいの雑居ビルの裏側も、すべてがピントのぼやけた映画に見える。沙夜までが役者だったのか、僕にはわからなくなる。親も理依も大学もすべて嘘っぱちに見える。というよりも僕自身が、現実に存在していないようだ。 立ち上がろうとしたが壁に倒れ、ずるずるとへこたれてしまう。 視界がぼやけて見える。水の層を介して見ているように、すべてがぼんやりしていて現実感がない。目を擦ろうと指で触れると、こめかみに激痛が走る。指には血と汗がついている。僕のものではないみたいだ。 胃液を口から吐き出す。男が鼻で笑っている。 視界が大きくぐらついた。すべての色彩という色彩に、黒い小さな染みが散らばって浮き出してくる。数人の駅員がたむろしている。いつの間にか男がいない。 静止した駅員たちの姿が揺れ動く。黒い染みはすばやく落ちていく。染みは視野全体に広がっていく。写真のように固定した彼らの光景は、ほとんど黒く覆い隠され、凍結した時空の中で遠ざかっていく。 闇に吸い込まれて落ちていった。真っ暗で何も見えない。無重力になったようだ。鈍痛の不快感が絶えずする。逃れられない。違和感と鈍痛がまとわりつく。時折、人の声が聞こえる気がする。闇の奥へ奥へと落ち込んでいく。その先は覚えていない。 意識を取り戻すと、白い壁に囲まれた殺風景な部屋の寝台に寝かされていた。外側から丈夫なネットが掛けられた小さな窓からは、高層ビルと曇った空が見える。どこかで見たことがある部屋だ。薄暗くとても静かで、沈滞した空気にかすかな消毒剤の匂いが混じっている。 看護婦が部屋の中に入ってくる。その見覚えのある顔をはっきり見た時、ここが父親の病院であることを思い出した。病院設立以来ずっと僕の両親の手足となって働いていた看護婦の叔母である。ある時期には家政婦として、ある時期には看護婦として。僕よりも強い連帯意識が、叔母と両親との間にある。僕は彼らの世界に違和感と距離を感じている。幼年時代に祖母に育てられたが、僕が小学校に上がった頃に祖母が亡くなると、仕事で忙しかった母親に代わって、この叔母が夕食を作って僕に食べさせたものだ。 こめかみのところ、三針ぬったよ。他は歯の破折と捻挫と打撲傷だよ。皮下出血があちこちあってね、どおしてこんなひどい喧嘩したの? それには答えず、腹部の痛みを我慢して上体を起こす。右足を屈曲させると鈍痛が走り眉をひそめる。 だめよ、まだ動いちゃ、しばらく入院だよ。 ええ? ここに入院? そうよ。 俺マンションに帰るよ。 とりあえず自分の部屋に戻りたかった。父親名義のマンションとはいえ、実家から離れた自室で一人になりたい。 だめだよ。入院よ。 帰りたいんだよ。 もう決まったことよ。 一人になりたいんだ。 ここは個室だから一人になれるよ。 ここには居たくない。 身体の痛みに耐えながら、ベッドから降りて靴を捜す。看護婦は僕の腕を強引につかむ。 せっかくお父様があんたの身体を気遣って、他の患者さんの入院日を延長してまで個室を開けてくだすったのに。 自宅で療養しちゃいけないのか? お父様が入院した方がいいって言われるんだから、そうすべきだよ。 自分の部屋で安静にするよ。 だめよ。 看護婦は強い口調で言い、僕を睨みつける。 わたしゃあんたのご両親に世話を頼まれてんだから。あんたはもっとご両親の愛情を大事にすべきよ。助けてもらったんでしょ。 僕の頬が引きつる。 もうすぐお父様が回診されるから、わがまま言っちゃだめだよ。 看護婦は薬を机の上に置いて、日誌に僕の病状を記入し始める。 長い溜息をついてベッドに転がる。よほど疲労がたまっているのか、たちまち眠りの闇に落ち込む。 見覚えのある医大の講義室で、大勢の学生たちと試験を受けている。皆は試験用紙に向かって脇目もふらず問題を解いている。隣では洋が試験用紙にさらさらとペンを走らせている。僕には一問も解けない。屈辱で顔が赤くなり汗が出てくる。両隣の学生の試験用紙を覗こうと首を伸ばすが、カンニングしても仕方がないと諦める。試験終了のベルがなり、皆はがやがやと講義室から出ていく。洋が僕に、試験に出た問題の解き方について話し始める。僕には何も理解できないので、惨めな気持ちになる。一人でキャンパスを出て土手を歩く。大男が後ろから拳銃を発砲しながら追いかけてくる。一目散に逃げるが、弾が命中し倒れる。次々と弾を撃ち込まれる。撃たれているが、なぜか痛くない。僕という人間が、死んでしまった。 ひそひそとした人々の話し声で、現実世界へ浮上する。目を開けると、白衣を着た父親と看護婦姿の母親が、僕のベッドの枕元で話をしているのが見えた。 彼らは僕が目覚めたことに気づいて、こちらを振り向く。 起きたのかい、卓君。 母親が心配そうに僕の顔を覗く。だが僕に目を向けながら、その瞳は僕を見ていない。別なものを見ている。 気分はどうなの? 別に。悪くはないよ。 ちんぴらに絡まれたんだってな。 父親が聞く。 身を起こすが、黙っている。 いい事がないな。 父親は溜息をついて眉間に皺を寄せる。母親が背中を曲げ目をしょぼしょぼさせて言う。 ちんぴらは逃げちゃったよ。 しばらくここで療養して大学へ戻ったらどうだ。アルバイトで働いていてもしょうがないだろ。 医者になりたいわけじゃないんだよ。 やりたいことをやりたいんでしょう? 物書きの仕事じゃ食べていけないよ。 と母親が言う。 そんな不安定な仕事じゃ後で後悔するぞ。好みや興味なんてのはな、その時々で変わっていくものなんだ。母さんだってな、昔はオペラ歌手になりたかったが、変わったんだよ。そうだよな。 ええ、ええ。看護婦になってお父さんと結婚して良かったよ、生活は安定して、老後は楽だし。オペラだっていつでも見に行けるんだよ。 医者になった方が現実的だぞ。お前には環境が整ってるんだ。この病院にはCTやMRIや超音波やエコー……。 あんまり興味ねえよ。 最新医療設備なんだぞ。 何の意味があるんだ。 なんてバカなんだ。将来的にはお前に譲ろうと考えていたんだが、猫に小判じゃないか。もっと現実的になりなさい。好きだの嫌いだのって、そんなものは変わっていくものだ。人間は良い環境と教育で自分を律して、良識を身につけ義務を果たしていくもんだ。 そうだよ、卓君。……どうしてこんな事になったのかねえ。 母親が溜息をつく。 昔はいい子だったのに。 ここには居たくないよ。 寝台から降りようとする。帰る所などないに等しかったが、どこに行こうとここにいるよりはましだ。 だめだよ、大人しくしとかないと。 母親は僕の両手をつかみ、ベッドに押し返そうとする。母親の手を振り払おうとするが、肩に痛みを覚え顔を歪める。 大丈夫? と母親が、僕に布団をかけ直す。 もう子供じゃないだろう、我が儘もいい加減にしなさい。 父親は呆れたように僕を見下ろしている。 お前は一人で生きてるわけじゃない。私たちやいろんな人の中で生きてるんだ。時期がくれば社会人としての立場を確立しなきゃならん。いつまでも取りとめのない感情に従ってるんじゃないぞ。 しかし……。 しかし、なんだ? 言い返したいのだが、言葉が見つからずに黙ってしまう。 父親は腕時計を見やり、母親と看護婦に次の患者の診療の指示をする。後は任せたよと言いながらカルテや検査資料を腕に抱え、僕を見て言う。 いいかい、社会に役立つ事が重要なんだ。いつまでも自分の事ばかり考えて、ふらりふらりしてるんじゃないぞ。 看護婦がうなずいている。 父親は踵を返し部屋を出ていく。 母親が僕に向き直り、情けなそうな顔をする。 汗水垂らして働いたお金を、卓君にどれだけ費やしてきたか……。今年こそは頑張ってくれなきゃ。 うるせえな、向こうへ行けよ。お前らとは人種が違うんだい。 小窓の向こうの高層ビルへ視線をやる。 親に向かって失礼な言い方をしちゃいけないよ。 と看護婦の叔母が言う。 舌打ちをして言い返す。 関係ねえだろ。 関係あるよ。ピアノ講習、水泳教室、英語塾、家庭教師、受験講習、海外ホームステイ、ポータブルデッキ、ギター、ピアノ、バイオリン、バイク、何百枚かのレコード、CD、体制の整った医科大学、マンション、卓君が欲しいものはすべて与えたじゃないの。留年するたびに、いくら学費がかかってると思うの。ここまで育ったのは誰のおかげだと……。 ちきしょう。 毛布を母親に投げつける。看護婦が叱った。 何をするの、卓君。 母親が言う。 小さな子供みたいにかんしゃくを起こすんじゃないよ。他に何が欲しいっていうんだい? 僕は口をつぐんだ。看護婦が言う。 私は卓君が子供の時から見てるけどね、あんたはずいぶんと恵まれてるよ。 俺には何もないんだぞ! と唇を噛む。 親が一生懸命に努力しているのに、卓くんのやることが中途半端なんだよ。 ちきしょう……お前らは俺を自分たちの思い通りにしようとしているくせに。 看護婦が言う。 卓君、素直にご両親に感謝しなさい。 うるさい! ありがたい事なんてねえよ。勝手に生んだんじゃねえか! 何のために生きてんだかわかりゃしねえ。 ああ情けない、卓君には随分良くしてあげたのに、こんなに親を悲しませて……。 母親は急に肩を落としてしょげた顔をする。その顔を見ると無性に腹が立ってくる。 早く大人になって親孝行してもらいたいよ。 なんだと、てめえ。 枕を母親に投げつける。 お母様に向かってなんてことするの。せっかく心配なさってるのに。 看護婦が母親に寄り添う。母親は溜息まじりに言う。 どうしてこんな事になったのかねえ。情けない。 お母様のせいじゃありませんよ。悪い友達に影響されたんですよ。 母親は恨めしそうに僕を見て言う。 できる限りのことをしてやっても、親を恨むんだからね、この子は。 母親を無視して服を着替え始める。看護婦が言う。 卓君、育ててもらった恩を忘れたのかい。 もともとあんたたちとは、血のつながり以上のものは何もないのさ。 親のスネをかじりながら何言ってるの。卓君に、親以外の誰がお金を出したり面倒みたりするっていうの。 と母親が言う。 ちきしょう! 怒りに駆られて、母親の髪の毛をつかむ。髪を上方に引っ張られた母親は、驚愕した顔で小さな悲鳴を上げる。母親は顔中に皺を寄せ大きな声で奇声を上げ始める。看護婦がやめなさいやめなさいと繰り返しながら、僕にしがみつく。僕の身体にまとわりつく看護婦の手の力と、母親のいかにも苦痛に満ちた表情と声に、さらに不愉快になった。 母親を投げ倒した。母親は尻餅をついて転がった。 お母様に向かってなんてことするの。 看護婦が慌てる。母親は転んだまま、顔を歪める。 親不孝ものだから……。 てめえなんか親じゃねえ。 母親の胸ぐらをつかむ。 あんた! お母様は何も悪いことをしてないよ。お母様はずいぶんと優しいじゃないの。嫌なことがあったからって、親にあたるものじゃないよ。 知ったような口きくんじゃねえ! 看護婦を振り払う。 ああどうしてこんな子になったのかねえ、今まで何のために働いてきたのか……。 そう言って母親がうなだれる。 けっ! 母親を後に投げ倒す。 その瞬間、僕の右肩から腕にかけて電流のような痛みが走る。母親は床に倒れ、涙ぐみながら言う。 冷たい子だねえ。 てめえの方こそこの痛みがわかるのかよ? 包帯を巻いてある腕を見せる。 その包帯は私が巻いたのに。 母親が涙をハンカチで拭う。 ちきしょう! 憤怒は急上昇し、ベッドの側の松葉杖を手に取り、小窓ガラスに向かって投げつけた。 杖は真っ直ぐに空気を裂いて飛び、小窓ガラスに命中した。幾多の女の金切り声を寄せ集めたような破壊音が鳴り響く。ガラスの数多くの破片が、いっせいに蛍光灯の光を反射させながら宙に飛散する。杖がガラスの向こうのネットにかかって床に落下していく。 看護婦が母親の背に手を回して身をかばい床に伏せる。彼らの背の上に、先鋭なガラス破片が水飛沫のように降りかかった。ガラス破片は床に叩きつけられ細かく跳ねながら、部屋中の床に散らばっていく。松葉杖が音を立てて床に弾む。 窓際にぶら下がっていたガラス片が最後に床に落ちた時、母親の身体がびくんと動いた。 母親はうずくまったまま床を見つめて、どうしてこんな子になったのかねえ、何がいけなかったのかねえ、と壊れたぜんまい人形のように繰り返し呟く。看護婦がそんな母親を、お母様のせいではありませんよ、悪い友達がたぶらかしたんですよ、と慰める。 その場にたたずんだ。透明なガラスで隔てられた所から茶番劇を眺めている気持ちになった。彼らに向かおうとしていたエネルギーの流れがぷつりと切れて、憤怒の激情が急速に下降していく。 僕は、見知らぬ他人の敷地に、本来いるべきでない場所に紛れ込んだ異人のようだ。よく知らない他人の敷居の内側に、長居をし過ぎたのかもしれない。 洋服を着ると、脚の痛みを堪えて出口に向かった。出口の扉の前まで来たところで、彼らを振り返る。二人は僕の方を見ようとはしない。後ろ手に扉を閉めて、長い廊下を見渡す。 塵一つないニスを塗った廊下と白い壁を、蛍光灯が照らしている。天井の縁をカルテ運搬機が電動音を鳴らして動く。消毒剤の匂い。冷ややかな空気が、僕を圧する。目に見えないガラス面が頬に当たる。様々な方向から硬質の冷たい感触が身体を掠る。息を吸う度に、消毒剤の混じったガラスの微粒子が鼻腔粘膜を刺激する。空気が重く、息を吸ってもなかなか身体に入らない。吸っても吸っても、空気がうまく体内に入らない。呼吸をやりづらい。重力のかかった空気が、身体にのしかかる。水を失った魚のように、口を開けて何度も吸い込もうとする。希薄な空気が少しだけ喉に入ってくる。顔を上に向け口を開けたまま、はあはあと息を吸い込み、軽い澄んだ空気を探して足を引きずりながら動き回る。通り過ぎる看護婦が僕を睨んで、病院内では静かに歩いてくださいと言う。黙って喘ぎながら身体を引きずり、濃い清らかな空気を求めて出口を目指す。 閑散とした大学のロッカー室で、自分の荷物を片づけた。ロッカーの中に何ヶ月も置きっぱなしになっていた教科書、ノート、実習用具などを鞄の中に詰め込む。奥にしまってあった汚れたままの白衣を手に取る。これを洗って再び使うことがあるだろうか。もうないだろう。無造作に鞄に入れる。誰もいないロッカー室で声がした。 卓君。 その声に振り返ると、常時開けっ放しにしてある戸口の所に、白衣を着た理依が立っていた。 やあ。 怪我はもういいの? ああ。 何しているの? 理依は空になっている僕のロッカーを見る。 大学を辞めるんだ。君には世話になったね。 それ本当? 彼女は大きな声を出す。 うん。もう退学届けを出してきたよ。 理依の顔がたちまち暗くなり、曇った顔のまま固定する。彼女は黙って僕を見つめた。 本などを鞄に詰め込む残りの作業を続ける。それを終えると、鞄を持って立ち上がる。理依と向き合う。 じゃあ元気でな。 彼女は合点がいかないとでも言うかのような顔をして、たたずんでいる。 ロッカー室を出て、薄暗く長い廊下を歩いていく。もうすでに講義は始まっていて廊下に人はいない。出口から明かりがぼうっと差し込んでいるのが、遠くに見える。 後ろから小走りに追ってくる理依の足音が聞こえる。 待って! その声に僕は立ち止まる。 理依が駆け寄ってくる。 もう少し我慢して勉強すれば、医者の資格が取れるのよ。 初めから俺には医者の資格なんてないんだよ。 国家試験に受かればいいのよ。 試験に受かろうが滑ろうが、俺には辛いんだ。 でもずっと勉強してきたじゃない。 仕方がないからさ。 私だってそうよ。でもだんだん慣れてくるわよ。 慣れたくないさ。 ばかね。そんな風に生きてたら世の中を渡れないわよ。 かもしれない。 後できっと後悔するんだから。いずれ私たちは医者として社会に出るわ。卓君は何? なあんにもないの? かもしれない。 ただのバカじゃないの。 黙ってしまうが、振り返ることもなく歩き始める。玄関から外に出ると、幾層にも重なった白い雲が空一面を塞いでいて、地上空間は漠とした明るさに支配されている。教学棟や病棟に囲まれた、だだっ広いコンクリート広場を歩いていく。 ちゃんとした仕事に就けばそれでいいのに。好き嫌いなんてどうでもいいじゃない! 医者になればまともに生きれるんだから! 理依の声が遠くからやってきて、ビルの壁や地面に冷たく響きわたった。 振り返ると、彼女が門に寄りかかって真剣な眼差しで僕を見つめている。 数年もの間、共に過ごし肉体関係まであったにもかかわらず、理依は僕にとって遠い存在だった。頻繁に会っていた時期でさえも。そのせいだろうか、彼女を抱いたことが、良い感じを伴って思い出されることは一度もない。 理依がもたれ掛かっている門の後ろに、広大な敷地にそびえ立つ校舎や病院の建物が見える。これまで、息詰まるほど冷ややかで圧迫感のある空気に浸されていた大学構内だった。 だがこうして距離をもってキャンパスを眺めると、どこか懐かしい空気に包まれている。呼吸が楽になった。今や僕とは無関係のただの医科大学機関にすぎない。理依の顔の輪郭も、距離が広がるにつれてぼやけてくる。 両親や親戚や教師や理依やクラスメートが、僕と多くの時間を過ごし心配したり干渉したりしたが、僕がどういう人間かを知る人はいなかった。異質な世界に取り囲まれていたというよりは、自分から異質な世界に闖入してしまっていたのだろうか。 その灰色の寒々とした現実の中で、僕に光を投げかけるような印象を残したのは、洋と沙夜だった。寂寞とした薄暗い場所にいる僕に、彼らの瞳は暖かかった。 重荷が取れて身が軽くなった一方で、まだ現実は変わってはいない。僕を保護していたかのように見えた、未来への線路という蜃気楼が消え去っただけだ。また明日から、機能停止に陥った臨海工業地帯で調査取材をしライターとして働くだろう。 広いアスファルト道路を歩いていく。辺りは造成中の埋め立て地だが、随分前から作業中止になっていてトラクターやクレーンなどが放置されている。平地に開発予定地と書かれた汚れた看板がいくつも立っている。空は相変わらずコンクリートのような平坦な雲で覆われている。時たま荷物を負ったトラックが通り過ぎていく。道路の遠く先は、大地の隆起の向こうに隠れて見えない。隆起を越えたずっと遠くに、淡い灰色の海が見える。湾岸には、鉛色の工業地帯がかすんで見える。 後方からバイクのエンジン音が聞こえてきた。その音はだんだんと大きくなり背後に迫る。振り向くと洋のバイクだ。彼は僕の横に並んで止まる。ヘルメットのゴーグルを上げて、僕を見る。 大学を辞めたのか。 ああ。 お前は何かを持ってる奴だからな。力になるよ。 世話になってるな。 これから忙しくなるぜ。俺は写真の仕事に移るからな。 ああ。 沙夜さんはどうした? 急にクラブに来なくなったようだけど。 うん、俺もよくわからないんだ。 ふうん、変な奴らとつき合っていたみたいだったからな、何かあったのかもしれないな。 僕は黙っていた。 ま、頑張れよ。期待してるぜ。 そう言うと、洋はエンジンをふかしバイクを動かした。彼はカメラバックを背負っている。その後姿が小さくなっていくのを見届けた。 僕はまた、歩き始めた。 数ヶ月が過ぎた。 住居と会社を変わったが、職種はこれまでと同じだ。取材しては書き、写真を選び構成をする毎日だ。書く主題は目まぐるしく変わっていく。依頼を受け、最終原稿の提出に向けて働く。自分自身が書いているというよりは、傀儡のように他人の原稿を書いているという気さえする。忙しく辛い。自分の書きたいものを書いていない、そんな感じだ。だが情けないことに、自分が何を書きたいのか、それがわからない。相変わらず、自分が何を欲しているのか、わからないのだ。 だが、再び医者の卵に戻ろうと考えたことは一度もない。この仕事は忙しいけれどもやり甲斐はある。世の中にある他のどんな仕事よりもましだ。やりたい仕事は他にはない。編集プロダクションの机の上で、自分の望むものを見つけていく他ないだろう。 沙夜からは何の音沙汰もなかった。彼女の携帯電話に電話をしても、この電話番号は使われていません、という女の人工的な声が繰り返されるだけだった。 彼女から貰ったペンダントを、机の引き出しの奥から取り出した。ハンカチに包んで、木箱にしまってある。警察に追われていたのだろうか。真実を知りたいという気持ちと、知る必要はないという気持ちが交互に入れ替わる。携帯電話の番号から、手掛かりが掴めないだろうか。少し前まで彼女はこの電話番号を使っていたのだから、居場所がわかるかもしれない。もしかしたら、沙夜に会えるかもしれない。会えれば、何があったのか事情も聞けるだろう。いや、彼女が僕の携帯電話に電話をしてこないのは、連絡を取るのを拒否しているせいではないだろうか。それとも、僕の携帯電話の番号を無くしてしまったのだろうか。考えれば考えるほど、沙夜がどうしているのか知りたくなってくる。 彼女がこの豪華なペンダントを僕に預けたのは、僕を信頼していたからだ。ペンダントの裏の蓋を開けると、おじさんだと沙夜が言っていた老紳士の古びた写真があった。沙夜が心を許していた唯一の保護者だったのだろう。おじさんは亡くなり、両親もいない、という彼女の言葉を思い出した。たった独りなのだろうか。知り合いの調査員に頼んで、電話番号からできる限りの情報を調べることにした。 電話番号から、当時の契約者の住所と名前だけを知ることができた。案の定、契約者は水野沙夜ではなく、知らない男の名前だった。住所も沙夜のものではないだろうが、そこに行けば、手掛かりが掴めそうな気がした。 休日に、その住所を探して行ってみた。久しく感じることのなかった心の弾みを覚えて番地を捜した。そこは、都市の真ん中の繁華街にある、煉瓦作り風の大きなマンションだった。玄関のガラス扉を押すと自由に入れる。目の前に管理人室があるが誰もいない。全部屋のポストが並んでいて、目指す部屋番号のポストには名前はなく、沢山の郵便物や広告類が詰まっていて外にはみ出していた。 エレベーターがあるが、それには乗らないで裏口に回り、階段を昇っていった。部屋番号を捜して、階段を昇っては廊下を行き来する。廊下を歩いていると、確かにその部屋はあった。だが扉の横にある表札は抜かれていて、枠だけが残っていた。ガスメーターのコックも閉じている。鍵がかかっていて、誰も住んでいないようだ。 なすすべもなく廊下をうろうろしていた。通りすがりの主婦に、尋ねてみた。主婦は言う。ああ、あそこは摘発されちゃってね、誰もいないよ。表向きはマッサージの看板を掲げてたけど、売春斡旋と麻薬の取引をしていたらしいよ。そんな事は全然知らなかった。一見普通の人が出入りしてたからねえ、最近の人は裏で何やってるかわかりゃしないね。ここは分譲マンションだから物騒な事が起きないうちに捕まって助かったよ。沙夜? 黒い服を着た髪の長い女は何人も出入りしてたけどねえ、捕まっちゃったか逃げちゃったかはわからないよ。 その場を立ち去り、人気のない道路を歩く。全身に風が通り抜けていく。明るい日差しが、アスファルト道路やコンクリートの建物などに照り返している。にもかかわらず、冷風が吹き抜ける。 “アラヤ”が催されていたクラブに行ってみた。クラブの名前や音楽のジャンルは変わり、バーテンダーや常連客も入れ替わっていた。 フロアでは緩やかなピアノのメロディとドラムスが鳴っていて、人々がゆっくりと海藻のように身体を動かしている。 暗がりの中で、長い黒衣を纏った長い髪の女が踊っている。踊る人々の輪の中へ入っていき、女の肩に触れる。女は振り返るが、見知らぬ顔だ。フロアを離れ、壁にもたれる。 明け方になるまでそこにいて、人々に沙夜について尋ねた。彼女の顔を知っている人は誰もいない。クラブを後にする。 濃い霧が街を包んでいた。 むせるような白い霧が顔に迫ってきた。 湿った雲状の大気は、地面から何層にも重なり、街を埋めて上空にまで達している。 街は朝霧の奥に沈んでいて、前方の道とビルのおぼろげな影しか見えない。 誰もいない通りを、霧をかき分けるようにして進む。 遠くの街角に、灯火が霧にぼんやりと滲んでいるのが見えた。 近づくと、燭台の上の蝋燭の火に照らされて、椅子に座っている老人がいた。 皺だらけの老人が、背中を曲げて何やらぶつぶつ言っている。 僕に気づいた老人は背中を伸ばし、皺の奥に光る細い目でまじまじと僕の顔を見た。 通り過ぎようとしたら老人の嗄れた声がした。 ちょいとあんた……。 振り向かないで行こうとする。 水野沙夜さんが、あんたを探してたよ。 僕の足は止まった。 どうしてその名前を知ってるんだ? 黒衣を着た長い髪の女性が、少し前にここを訪れたんだ。 なんだって? 渡部卓君に逢いたいと何度も言っていた。他に知り合いがいないとも。 沙夜はどこにいるんだよ? 知らん。 沙夜はどこへ行ったんだよ? わしゃ知らんよ。ちょいと占いましょうかね。 僕が何も言わないうちに、老人は細い棒の束を振るい、机の上にばらした。老人は言った。 月の出る方向へ行くが良い。近くにいるはずだ。 足をふらつかせながら歩き始めた。 街は相変わらず霧の底に沈んでいた。 白く厚いとばりの遠方に、大きさの違う巨大なブロックを寄せ集めたような陰影が見える。 霧の海が、ビル街を流れている。 高層ビルに取り囲まれた、細い迷路のような裏道を歩く。 行く先は、霧が立ちこもっていてほとんど見えない。 どこまで行っても霧に隠れた道だけだ。 左右はビルのコンクリート壁に囲まれていて、近づけばぶつかってしまう。 手探りで霧の中を進む。 どこからか、コンクリート壁を打つ音が聞こえてきた。 低音の響きが、厚い霧の向こうからやってくる。 音はリズムを作って、木霊している。 その音をたよりに霧をかき分けて進む。 歩いても歩いても行方は白い大気だ。 霧を払い除けようと両手を動かすが、依然として雲の中にいるみたいだ。走ろうとするが、無重力空間にいるようにゆっくりとした動作になる。 リズムを作ったコンクリートのタップ音が大きくなる。 無邪気な笑い声が聞こえる。 少女のような声色。 沙夜なんだろう? と僕は霧の奥を凝視する。 音が、止む。 霧の中にたたずんで、辺りを見回す。 沙夜、返事をしろよ。 音はまったく消えてしまう。 沙夜? 返事は、ない。 何も聞こえない。 林立したビルの陰影だけが、うっすらと見える。 遠くまで静まり返っている。 霧がいっそう濃くなり、ビルの陰影さえもなくなる。 大気が真っ白になる。 霧の海の底で、道も見えなくなってしまう。 了 |