| 眠る月(2) 落ちてきた夕陽は、何層にも重なっている雲の裏に隠れているが、その光は上空や海面へ放射され、湾全体が茜色に染まっている。 湾の両端は工業地帯で、弧を描きながら海に突出している。近くで見るとかなり巨大だと思われる、接岸したコンテナ船、ガントリークレーン、タンク、パイプライン、倉庫、工場、煙突、どんな用途があるのか見当もつかない鉛灰色の幾何学的な建築物などが、雑多なブリキのように密集している。それらはスモッグ状の淡い靄に包まれていて、幻想的な未来都市にも見える。 どこかで工事をしているのか、鉄筋を打ち込む音やドリルやモーターの動く音が後方からする。時折、大型トラックの走る音がして、地面が振動する。 洋が、廃れた埠頭に三脚を立ててカメラを操作している。埠頭の縁に投げ捨てられている錨綱の束の上に、佑希が座っている。彼女は僕に気づいて手を振る。洋が僕の方を振り向き、笑って手招く。 よう。 いつになく元気だな。 これで食っていきたいからな。早くおふくろにも朗報を聞かせたいし。 おふくろに朗報か……心の中で呟く。 僕も両親に明るい知らせを聞かせたいと思う。彼らは現在の僕に悲嘆している。彼らが最も手放しで喜んだのは、僕が医大に合格した時だった。これから両親に朗報を伝えることができるとすれば、大学生活に復帰し勉学に勤しむ時だ。そこまで考えると、前途が苦難で、胸を圧迫されるような感じを覚える。 廃棄物として何個も積まれている大きなゴムタイヤの上に座る。 洋はカメラのファインダーを何度も覗き、被写体である佑希を確認している。仕事に使っているカメラとは別な機種である。佑希は破れたカーキ色の作業衣を着ている。 洋はカメラ機材の入っているカメラバックからビニールやタオルで包まれているレンズやフィルターを取り出し、カメラに装着しては何度もファインダーを覗く。彼は子供のように活発に動く。仕事をしているいつもの彼よりも活動的だ。 洋は高校生の頃から、カメラのレンズを覗いている。学校では写真部に入り風景や草花を撮ることが多かったが、友達の仕草や行動を不意打ちで撮ることもあった。不覚にも僕も何枚か撮られたことがある。それらの写真の中で、僕はプールサイドで日焼けした顔で笑っていたり、教室の窓際で憂鬱そうに外を見ていたりしている。彼は僕の自室に遊びに来ることもあった。そこで、彼はギターを弾いたり女の子の話をしたり写真やサッカーの話などをした。その頃小論文を書くつもりで書いた原稿を洋に読ませたら、面白いなと言った。彼は批評したが、僕が反論すると議論になり、終いには勝つか負けるかの口論になるのだった。大学受験のことが気になり始めると、次第に洋とつき合う事が少なくなっていった。学校の帰りや休暇などには学習塾や講習に通っていて受験勉強に忙しくなった。参考書から目を離すと、暗い虚空が広がっていた。閉塞した未来。だが、両親や担任の教師の勧める医科大学へ進学することを考えると、幾分気持ちが落ち着くので、数式や化学式などを暗記し続けた。母親は僕の将来のことを自分の事のように心配し、僕の勉強のためには惜しみなく金を使い、欲しい物をせがむとだいたいの物は買ってくれた。だがなぜか、嬉しくはなかった。洋は大学に推薦入学をするらしく、写真部の仲間や試験の偏差値にさほど興味がなく勉強もしない連中と遊んでいた。 僕は都市でかなり偏差値の高い医科大学へ、洋はそれほど偏差値の高くない大学の芸術学部へ入学した。僕は周りの称讃を浴びて得意満面だった。洋はというと、相変わらず写真部の仲間と撮影旅行に行ったり、サッカーをしたりで、大学の程度についてなどあまり気にしていない様子だった。僕に対しても、以前と同じように接し、羨んだりする様子はなかった。おめでと、別々の道だな、と言っただけだった。 大学進学が決まった頃、偶然に洋と街で会ったことがある。洋はバティックの派手なシャツを着ていて、やはり小型のカメラをバックのポケットに入れていた。彼は、これから写真展に行くところだと言った。どことなく彼が羨ましかった。だが僕は得意げに、医科大学への進学を告げた。そうか、頑張れよと彼は言い、僕に距離を取って眺めた。他の誰もが僕に対してするように尊敬の眼差しをして、いいなあ将来有望で、というような事を、彼が言わないのが不思議だった。あくまで目の高さが同じで、むしろ僕から離れるかのように、じゃあな、と背を向けようとした。なぜか急に淋しくなった。俺も行ってみたいな、という言葉が口をついて出た。篠崎一の写真展さ。一緒に行くか? と彼は振り向いた。どういうわけかとても嬉しかった。そして彼と写真展を観た。その後は、えんえんと洋の篠崎一氏についての考えや写真観などの話が続いた。自分の道であるはずの医学について、何ら考えなど持ち合わせていないことを振り返って恥ずかしくなった。こうして洋はカメラと共に創造的な生活へと入っていき、僕はあらかじめ定められていた将来有望なる道へと戻っていった。だが今となっては、再び医学の世界へ戻ることを考えると閉塞するような息苦しさを覚える。 佑希は痺れを切らしたのか、上着を羽織り膝小僧に肘をついて洋を見ている。彼は僕や佑希の存在をすっかり忘れてしまったかのように、ファインダーを覗いたままひたすらカメラを操作している。 まだあ? 天気予報では雨が降りそうだって。 佑希が言う。 もう少しさ。 洋はファインダーを覗いたまま、焦りを殺すような声で言う。 もう陽は出ないわよ。 今日は曇具合がいいから出るよ。 きっと出ないわよ。 出るよ。 ま、いいっか。賞金貰ったら分けてよ。 わかってるよ。お、出そうだぞ。 洋の声に力が入る。佑希は急いで上着を脱ぎ、身体をカメラの方に向ける。洋は再び被写体を確認する。 なあ、これ持ってて欲しいんだ。 洋はトレーシングペーパーで覆ったストロボを僕に手渡す。 この位置でね、ここだよ。 彼は少年のように、高揚して足で地面を鳴らしながら言う。 わかった。 と快く引き受ける。 夕陽はまだ雲の中に隠れている。 洋は黙ってシャッターチャンスを待っている。何分待っただろうか。後方から聞こえる、ドリルや鉄筋を打ち込む音、生コンクリートミキサー音、トレーラートラックの走る音、電動機音、工場の騒音などが僕には不快に聞こえ始める。洋と佑希はそれらの音が気にならないのか、ストップモーションがかかったように一点を見てじっとしている。 ストロボを持っている腕が怠くなってきた時、ファインダーに目をあてレリーズの先端を握っている洋が急に口を開いた。 出た出た。 洋が息を飲む。その時周りの空気が静止したかと思うと、雲と雲の間から夕陽が覗いて目映い黄金色の光を一気に放ち、景色がこれまで見たことのない印象に変転した。 燃えるような朱の珠が、雲の間から輝いてこぼれ出し、暗い海面が金粉に覆われたように輝き始める。遠くに見える湾の両端の工業地帯は逆光で影になり、それらを包む靄の縁が繊細な黄金色に染まる。夕陽から放たれた光り輝く金色の帯が、真っ直ぐに金粉の海を通過し、錨綱に座っている佑希の身体に命中した。彼女は逆光によって影になりながらも、輪郭は朱の光に溶解するように眩しくたゆたう。先ほどまでの無機的で汚れた灰色の景色が、一瞬のうちに夕陽の光により息を吹き返し、自然の威厳と美に感化され輝き始める。 刻々と目に見えないほどの小さな動きで、光と色彩と形態が微妙に錯綜しつつある。その絶妙なタイミングにより、無彩色の風景が瞬く間に非日常的な景観に移り変わるのが不思議だった。 シャッターの切れる音がする。秒刻みに連続するシャッターの音。 次々に切れるシャッターの音の中で、洋は光景を凝視している。 やがて夕陽が翳ってくる。たちまち雑多な色が混濁していき、元の生彩のない世界に戻っていく。 景色はだんだんと輝きを失い曖昧模糊としていく。先ほどの美しさはどこへいってしまったのか。鮮明な光の片鱗さえも見あたらなくなってしまう。洋は再びシャッターチャンスを待っているが、夕陽は雲の向こうへ隠れたままで、もう現れることはなかった。 陽の明かりが衰え、工業都市の明かりがまばらに点灯し始める。洋はレリーズから手を離し、舌打ちをしてたたずむ。 やったね、と佑希が笑う。洋は複雑な表情をして、カメラや三脚をタオルで包みカメラバックにしまい始める。佑希がそれを手伝う。洋はほんの一瞬に垣間見る、時間と自然と人工物の絶妙な交錯が生み出す美をとらえるために、何時間も前から準備し待機している。洋は時々言う。シャッターチャンスはまたとない永遠さ。 こうしている間にも刻々と大気は流れ、地球は太陽の周りを公転しながら自転し、星の位置は少しづつずれていく。夜の港湾が多くの人工的光線を灯して沈静しているように見えても、それらの景色は暗闇の中で微妙に移り変わっている。その変化の中で、先ほどの薄暮の美しさも失われてしまった。目に見えぬ巨大なエネルギーが、静かに流れている。そのエネルギーが奇跡的なタイミングで目を奪われるほどの景色に変貌したり、時には地震や暴風雨や津波などの激しく暗い脅威の光景に急変する。自然が洋を揺さぶっていた。巨大なエネルギーに共振して、カメラと共に没入していく。ファインダーを通じて自らの命へ入っていく。いつの間にか彼自身が、自然の姿になっている。 どことなくぶよりとした加工肉のような、だがれっきとした人間の形をした塊がある。微動だにしない、抜け殻の五体。わずかにふやけてホルマリン臭い。少し開いた瞼からは、眼球がみえる。白濁した黒目はじっと宙を向いている。かすかな浮腫をおこし、硬直した痩せぎすの死体。色素の抜けた皮膚のすぐ下に骨の隆起が見える。 このような人体を、どこかで見たことがある。このような瞳を、ずっと昔から知っている。だがどこで見たのかはわからない。どのような状況だったのかもわからない。実際に見たのかどうかもわからない。にもかかわらず、ふやけているが痩せ衰えた死体を、見慣れている気がする。 白衣を着た学生たちが、死体の横に立ち皮膚を切開していく。皮膚を剥離し、ロースハムのような筋肉を露出させる。色的には筋肉とほとんど見分けのつかない神経や血管を傷つけないように、これらにこびり付いている脂肪を取り除いていく。しばらくはその作業が続く。研究員がそれぞれのグループについていて、学生たちに説明をしている。 天井が低く広い解剖室に、死体が横たわった寝台がいくつも置いてある。死体の周りを、白衣姿の学生たちが取り囲んでいる。みんなから離れて壁際の椅子に座って眺める。長い間有機体に触れたまま放置され、変質してしまったホルマリンの匂いが鼻につく。どことなく肌寒い。空気が鋭利でひやりとしている。目に見えないガラスの破片が、いたるところに散乱しているようだ。蛍光灯の光が、空気中のいくつものガラス破片に反射して、ちらちら光って見える。身体を動かすと、あちらこちらのガラスに触れる感触がする。頭が重い。脳に霞がかかっていて、ぼんやりしている。頭を振る。眠いわけでもない。見知らぬよその光景を、薄い膜を通して見ているようだ。僕だけが違う場所にいるみたいで、触れる空気は冷たい。 みんな死体の側で、いつの間にか解剖をする手を休め、黒板の前に立っている講師の説明に耳を傾けている。僕が透明人間であるかのように、僕に気をとめる者はいない。みんなは自分のやるべき事で忙しいのだ。 ふと遠くから自分の名前を呼ばれていることに、気づいた。顔をそちらに向けると、講師が僕を睨みつけている。声の主である彼が意外と近くにいたので、びっくりしてしまう。彼は詰問するように試問する。しどろもどろになって考えるふりをしながら下を向いた。 休憩のベルがなり、学生たちはがやがやと自在に動き始める。部屋の外に出る者もいれば、窓際に行ったり、実習を続ける者もいる。講師は呆れた顔をして僕を睨みつけている。下を向いてじっとする。彼は小さな舌打ちをして書物やノート類を手に持ち、部屋から出ていく。ばつの悪い思いで俯いている。 のろのろと立ち上がり、死体の前を通る。休憩時間だが、神経や血管の学習が終わっていて、次は骨を露出させようとメスを動かしているグループもいる。立ち止まって、その死体を見る。切開した筋肉の間から灰白色の骨が覗いている。それを見てしまうと部屋を出た。廊下を歩き、入り組んだ通路を通り、裏口からまだ舗装のされていない元はごみ捨て場だった狭い空き地に出た。湿った空気が沈滞している。陽光が高層建物に遮られ、薄暗い。壁にもたれ煙草に火をつける。見上げると四方は窓のないコンクリート壁に囲まれている。改築したばかりの病棟だ。なぜ自分は白衣を着ているのだろうか。自分が身に着けているのに、他人の衣服のようだ。立ち並ぶ病棟や教学棟、人体を研究し治療するこの場所が、異質な遠い世界に見える。何かから逸れてしまい、迷い込んでしまったのだろうか。煙草の味など感じないが、ひたすら煙草を取り出し火をつける。何本もの吸い殻が地面に落ちる。壁を見つめながらまた煙草に火をつける。 卓。 背後から理依の弾んだ声が聞こえる。 学校に来たのね。見かけたから追いかけて来たのよ。 振り向くと理依は笑っている。 どうしたの? 元気ないわね。 僕は煙草の灰が落ちるのを見ている。 すぐに慣れるわよ。 彼女は僕の肩をポンと叩く。それから大学の先輩や同級生や先生についての世間話、試験や進級の話などをする。あまり興味を持てないが、相槌をうつ。僕の両親から彼女のマンションへ電話がかかってきたと言う。顔が引きつる。彼らは僕に電話がつながらない、毎日何をしているのかと彼女に尋ねたらしい。理依は、僕がアルバイトをしているとだけ答えたと言う。 ご両親心配してたわよ。 理依は紙袋からプリントの束を取り出す。講義ノートや過去の予想試験問題集などのコピーである。 もうすぐ試験だから助かるでしょ。 咳き込んで煙草を地面に捨てる。 わからないところがあったら、私に聞いて。 あ、ああ。 理依の視線を避けて下を向いている。 自信はないけど。 彼女は耳に入らなかったふりをして言う。 そのコピーを暗記するだけで合格するわよ。私が受けた時そうだったもの。 ……そう。 理依はもう大学生活の半ばを過ぎている。成績は良くないが、一応進級している。さほど医学の勉強に面白味を感じているとは思えないが、全国的な有名高校から推薦入学してきた彼女にとっては、知識や情報を暗記し体系化することは、そう難しいことではないだろう。良い成績を取ることで、理依はこれまで誰もが順調だと認めるような人生を歩んできた。これからもうまく通り抜けていくに違いない。やがて、代々医者という誉れのある環境と財産と美貌で、一人前の社会人と見なされ、世間に適応していくのだろう。学年ではとうに先輩になってしまった理依に訊ねる。 大学の方は忙しいかい? うん、臨床実習があるからね。もうさぼってる暇なくなっちゃった。つまんない毎日よ。 理依は溜息をつく。 でも頑張らなくっちゃ。人の身体を扱うんだもの。 彼女は自分を鼓舞するように言う。 そう、そうだね。 卓ったら、このままだと転落しちゃうかもよ。 転落? そう、安定した将来からただの人へ。 ………仕方がないさ。 頑張りましょうよ。他にどんな仕事に就けるっていうのよ。卓のやってることは、日雇い労働みたいなものじゃない。 わりと……気に入ってるんだ、その仕事。 理依は眉をひそめる。 すぐに飽きるわよ、そんな仕事。 調査取材して情報を人々に伝える事って、面白いと思うな。 ふうん。きっと知らない世界に憧れてるだけだと思うわ。食べていけないわよ、そんな仕事。 僕は黙ってしまう。 このまま行けば、いずれは病院経営者よ。頑張りましょうよ。私たちにはすでに環境が整ってるんだし、信望も築かれてるんだから。 もう医学生のふりをするのが嫌なんだよな。 そのうち本物になるわよ。卵のうちは誰だって慣れないものよ。 ……そんなもんかな。 そうよ。私はだんだん慣れてきたわ。レポートや口頭試問に追われて忙しいぐらいの方が落ち着くわ。何も考えなくていいじゃない。言われた通りにしてればいいのよ。 辛くないの? 別に。もともと好きな事とかやりたい事なんてないもの。 理依はよそを見て、ふてくされた顔をする。自分を諭すような口調で言う。 それが家族や社会のためになるんだから、生活が安定するんだから、いいじゃない。 理依は僕を見て言う。 自分の気持よりは、人々の役に立つことの方が大事なのよ。気持ちなんて変わるものだから。 そんなものかな。 そうよ。もし卓が大学を辞めたとするわよね。何年か後に医者になった同級生が、人の命を助けて尊敬されているのを見たら、羨ましいと思うわよ。 ……そうかな? 自問するように言う。 そうよ。気持ちに従っていたら放縦な生活になるわ。だから慣習や規則に従わなきゃいけないの。 人に調子を合わせたり、体裁を保ったり、もうふりは嫌なんだ。本当の自分になりたいんだよ。 本当の自分なんてないわよ。人々の中で装った自分しかいないのよ。ふりをしていれば、それがそのうち本当の自分になるの。 理依は僕の肩に手を乗せる。 卓には病院長の座があるんだから。私と一緒に頑張りましょうよ。 彼女は僕の手を握ってくる。僕の手は彼女の手の中で退く。彼女はもう一方の手で、僕のもう片方の手を握ってくる。 自分の事ばかり考えていないで、人々に貢献をするように努力しましょうよ。 理依は身体を近づけ、僕の顔にかかっている前髪をゆっくりと後ろにやった。 本当の卓なんて、どこにもいないの。人目に映る卓がいるだけよ。 理依の手から退くように、後に下がる。 もう嫌なんだよな、大学も、親も……君と今こうしている時でさえ……。 理依の顔が硬くなる。 だから……それは変わるものよ。気持ちは移り変わるのよ。今は嫌かもしれないけど、将来はまた違った気持ちになるかもしれないわ。 実は……実は君の事を本当は好きではなかったのかもしれない。 理依は仰け反る。 ……どうして今になってそんな事言うの? 私のこと好きだって言ったじゃない。結婚して二人で病院の仕事しようねって。 そうだっけ? ひどい、そんなの。私を抱いたじゃない。愛してるって言ったじゃない。卓のことずっと心配してきたのに……色々してきてあげたのに……どうしてなの? 理依の顔が歪む。 少しうろたえ口ごもる。 ご、ごめんね。 彼女は俯き、ハンカチで目頭を押さえる。 ほら、やっぱり、気持ちなんて変わるんだから。私を愛してるって言ったくせに……。 困惑して目をしばたたく。 身体だけ欲しかったのね。 違うよ。 嘘言わないで。好きでもないのにつき合うなんて、私が便利だったからでしょう? 本気でそう思ってるのかい? 詐欺! 理依は僕の胸を突き飛ばす。 彼女はハンカチで鼻を押さえながら、小走りで僕の脇を通り去って行く。 たたずんで、その後ろ姿を見ていた。彼女は建物の中に走り去り、小さくなっていく。理依の小さな後ろ姿が、僕を振り返った。彼女は叫ぶ。馬鹿にしないでよ! 薄暗い館内に怒鳴り声が響く。理依は足音を立てて、走り去っていく。足音は遠くなり、やがて消えてなくなる。馬鹿にしないでよ、という言葉が耳の奥で木霊する。理依や大学にいる人々から、初めて咎められたような気がした。 人気のない静寂とした空気が戻ってくる。館内から、沈滞した冷ややかな空気が漂ってくる。教学棟と病棟で四方を塞がれた狭い場所に立ったまま物思いに沈む。 “アラヤ”が開かれる日がやってきた。 臨海工業地帯での取材を終えて、シャワーを浴び洋服を着替えるために、自宅のマンションに向かう。近くまで帰って来た所で、足を止めた。僕の部屋の窓から明かりが見える。誰かいるのだろうか。理依には部屋の鍵を渡していない。不安な足取りでマンションの階段を上がる。 部屋の鍵を開けて中へ入ると、母親が居間のソファに座っていた。 やあ、どうしたの。 と無感動な表情で母親を見る。母親は心配げな顔で見上げた。 どこに行ってたの? お母さんずっと待ってたよ。理依さんに電話をしても知らないって言われるし。ほとんど大学へ行ってないみたいじゃない。毎日何をやってるの? 別に。 今年こそは、頑張ると思ってたのに。 居間を通り過ぎ、扉を開けっ放しの仕事部屋へ行く。 どうして大学に行かないの? ……医者になりたくないんだよ。 母親は口元をへの字に曲げて、目をしばたたく。今にも泣きそうな顔をしている。 そんな事を言わないで、大学に行っておくれよ。父さんも叔母さんも、卓君が卒業して国家試験に受かるのを楽しみにしてるんだよ。親戚も近所の人も、息子さんそろそろ卒業の年じゃないですかって聞かれるから、なんて答えていいやら……。 うるせえな。 もともと頑張り屋さんなんだから、やればできるよ。何か必要なものあるかい? 黙って机に向かい椅子に座る。 母親は食器棚から勝手にティーサーバーを取り出し、紅茶を入れる。ティーカップを僕の机の上に置く。 買いたい医学書でもあるんじゃないかい? きれいに洗った白衣を持ってきたよ。 テーブルの上に、一つ一つナイロンに包まれた白衣が、何枚も重ねて置いてある。 ティーカップには手をつけないで、煙草を取り出す。 いつから煙草を吸ってるの。昔は吸わなかったのに。お父さんもね、病気を治す人間が身体に悪いことしちゃいけないって、ずっと昔にやめたよ。 母親は吸い殻が沢山入ったまま放ってある灰皿を見る。煙草に火をつけた。 もうすぐ試験なのに、ずっと欠席してるんだから、わからなくなってるんじゃない? 溜息と一緒に煙を吐き出す。 家庭教師を頼む? うるさいんだよ。 このままだとまた留年してしまうよ。 黙ってパソコンのスイッチを入れて、仕事の続きをしようとする。 毎日何してるの? 電話してもいつも留守番電話になってるじゃない。 母親は資料やフロッピーの入った鞄を開けようとする。 よせよ。あんたには関係ないだろ。 と鞄を引き寄せる。母親がまた、眉間を引き上げ悲しそうな顔をする。 そんな事言って……。親子でしょうに。 急にむしゃくしゃして舌打ちをする。 ずっと手をかけてきたんだから。このマンションだって、大学に通いやすいって卓君が言ったから買ってあげたのに、親にそんな口きいて。 一人で暮らしたかっただけだよ。 お父さん心配してるよ。 余計なんだよ。 どうして。医者になりたいって言って頑張ってきたじゃない。大学に通いやすい所にマンションが欲しいって言ったのも卓君だよ。 本心じゃなかったんだよ。 卓君がやりたいようにやらしてるじゃないの。 なんだって。 煙草を口から離す。 自分で医大受験のための講習に通って、自分でこの大学を選んで……。 好きでやってきたわけじゃなかったんだぞ! 卓君の言う通りにしたんだよ。 ちきしょう。俺を仕向けたな。 机の上に置いてある、誰かの大学講義ノートのコピーの束を払い落とした。 一生懸命に助けているのに親をバカにした口をきいて……昔はこんなじゃなかったよ。 いちいちうるさいんだよ。あんたは俺のことを知らないんだよ。 知ってるよ、私の子なんだから生まれた時からずっと知ってるよ。いい子だったよ。留年するようなタイプじゃなかったのに……。 母親は大きな溜息をつく。母親に背を向け、低い声で言う。 帰ってくれよ。 母さんを悲しませないでおくれよ。 老いた母親は背を丸めて僕を見上げ、懇願する。その卑屈な表情を見ていると無性に苛立ってくる。一言一句はっきりと言った。 俺は、やりたいことをやりたいだけなんだよ。 やりたいことってねえ、生活が安定してからやるもんだよ。母さんもねえ、この年まで沢山働いてきたから、そろそろオペラでも……。 この時、電話が僕たちの会話を遮って鳴り響いた。 受話器を取ると、トランステクノが騒々しく鳴り響いている。洋の興奮気味の声が飛び込んでくる。 早く来いよ。卓に伝えたい事があるんだ。 なんだよ、なんかあったのか? まあな。俺事だが、ラッキー情報さ。 これから行くよ。 電話を切ると、母親という血縁だけの他人を、無言で指弾すべく洋服を着替え始めた。背後から母親の声がする。 どこへ行くの? 母親が居座るこの部屋から逃れるために、性急に財布と部屋の鍵をジーンズのポケットに突っ込む。鏡を見て簡単に髪をとく。 こんなに夜遅くどこ行くの? どこだっていいだろ。 靴をつっかけたまま部屋を出て、マンションの外に出てから靴紐を結ぶ。 重い鉄の扉を隔てた向こうから、四方のコンクリート壁を振動させる重低音の鈍い響きが聞こえる。扉をこじ開けると、ストロボの閃光と鼓膜を圧する音のなだれが覆い被さる。慣れない目で、暗闇の中にいる洋を探す。 人々の踊りの渦から洋が抜け出し、フラッシュする光を頬に浴びて両手を振ってやってくる。 全国都市フォトコンテストで入選してさ、あの篠崎先生が声をかけてくださったんだ。 ほんとか、やったな。 明るい衝撃が胸に広がっていく。洋は笑って何度もうなずき、興奮気味に言う。 俺の写真が篠崎先生の目に触れてさ、助手をしながら仕事してみないかって。さっそく仕事をもらったんだ。 洋が人生の大事な転機に立ったことを理解する。見上げるように彼を見つめた。 頑張れよな。 洋に握手を求める。 ああ。 彼は僕を見つめて両手で握り返す。 目前にある洋の希望に満ちた笑顔に、僕の胸中も照らされるようだ。この世のどこにでもあるとは言えないかもしれない、幸運と才能と努力とそれに伴う歓喜があることも現実なのだろう。彼の全身の笑いを、少し遠くを見るような眼差しで眺める。 長髪の黒い服を着た男がやって来て、洋の肩に触れ話しかける。洋は照れるように手を髪にもっていきうなずいている。洋は僕を男に紹介する。男は篠崎スタジオのアートディレクターだと言って、僕に名刺をくれる。僕は名刺を持ち合わせていない。名刺を作りたくなるような、堂々と自己呈示できるような社会的立場を持っていないことが恥ずかしい。 彼らはバーカウンターの隣にあるガラスの壁で隔てられているVIPルームへ行った。ソファでは人々が座って、アルコールを飲みながら談笑している。その中には写真雑誌などで見覚えのある篠崎一氏もいる。 洋とその男が来ると、彼らは雑談を中断し、ソファから身体をずらして席を開けようと落ち着きがなくなった。奥に座っている篠崎一氏は隣の席を空けて、ソファの背もたれを軽く叩いて洋を招く。洋が座ると、篠崎一氏は彼に笑いながら話しかけた。皆の視線はその二人に集まる。洋が応えると、皆は二人に向かってうなずいたり話し出したりする。時折篠崎一氏は、洋の肩を軽く叩きながら喋る。彼らは時折いっせいに笑う。こうして洋は、新たな仲間に入っていき、彼らの編み出す網の一部となって活動していくのだろう。 踊っている佑希が目に入る。佑希もこちらの方を見ている。彼女は近づいてきて笑い、お久しぶり、と僕を抱えるように背中を叩く。僕たちは積んであるブロックの上に座る。 おめでと。モデルは佑希なんだろ。洋は君ばかり撮ってたよね。 そうね、ありがと。私のおかげよね。洋はこれから大きくなるわ。 そうだな。昔からあいつは大きな奴で……。 この時、フロアの奥の螺旋階段を上っていく、沙夜の後ろ姿を見たような気がした。瞬きをすると、もういない。気のせいかもしれない。立ち上がって螺旋階段の上方を凝視する。 なあに? なあに? 昔の洋はどうだったの? 佑希はもっと話を続けようとするが、それを遮って尋ねた。 ねえ、沙夜来てた? 知らないわ。 後でね。 急いで螺旋階段に向かおうとする。 卓! 佑希の生真面目な声の調子に、振り向く。彼女は不安そうな顔をしている。 彼女には気をつけてね、本当に。 ああ。悪い人じゃないよ。 そう言い残して、鉄製の螺旋階段を駆け足で上っていく。歪んだ木製の箱が乱雑に積まれている通路に出る。男が地面に座り積まれた箱の山にもたれ、虚ろな顔をして足を投げ出している。高い天井の汚れた蛍光灯が、彼の後ろに束ねた長髪とやつれた顔を薄黒く照らしている。わずかに開いた目はぼんやりとしていて、どこも見ていない。僕の歩く足が男の脹ら脛に引っかかるが、どけようとする気力もないようだ。 通路の横には扉のない暗い大きな部屋が口を開けている。電灯はなく、闇に包まれた独房のようだ。地面に転がっている空き缶やフライヤーや煙草の箱や吸い殻などが、か細い明かりによって見える。入り口では、ベルボトムのパンツに、ヘンプの首飾りをした男が地べたに座ってぐったりとしている。 奥は薄暗く、数人のヒッピー風の男女が地べたに座って話しをしている。僕に気づくと会話をやめて、ぼんやりとした目で見上げる。使い古しのアンプや束ねたコードやジェラルミンの箱などが無造作に積まれている。下の方から重低音のリズムが駆け上がってきて地面を振動させている。 壁に押しやられたコンテナや壊れた楽器の間に、女が地べたに座っている。がっくりと頭を落としていて、顔は長い髪に覆われていて見えない。だが、それが沙夜であることにすぐに気づいた。 沙夜は壁にもたれていて寝返りをうつ草食動物のように、顔を横に向けたままゆっくりと上げる。長い髪が下に垂れて薄白い顔が覗く。その顔は生彩がなくやつれている。憂いと無気力に潰れてしまい、闇に沈潜しているようだ。沙夜の瞳は、先ほど見た麻薬中毒者みたいな男のそれに似ている。死んだ瞳だ、濁った深く沈んだ水の層を感じる。長い年月をかけて流れ落ちてきた、暗い涙の水たまりだ。沙夜のこのような顔を、初めて見る。だがこの表情を、どこかで知っていた気もする。 彼女は人の気配に気づいてこちらに顔を向ける。僕を認めると、彼女は全身に電流が走ったかのようにびくんとして、沈み込んでいた水たまりから上半身を起こした。暗色の水たまりは急速に消散していく。 沙夜は純真な笑みを浮かべて嬉しそうに言った。 来てたの? ああ。 沙夜に近づき、彼女と同じ目の高さになるまで腰を落とす。 彼女は少女のような素直さと信頼のこもった瞳で僕を見つめている。 沙夜の髪に触れようとして、ふと指を止める。無垢で繊細な白い顔に似合わない赤黒い傷が、こめかみに走っている。傷口は浅いが血餅ができていて、太い線を引いたように見える。 どうしたの? その傷……。 沙夜は黙っている。 どうしたんだい? 彼女は俯いて何も言わない。 殴られたのかい? 彼女はじっと下を向いている。 どうして何も言わないの? 彼女は黙っている。 なあ。 沙夜の頬がピクリと反応する。だが沈黙している。 君はどんな奴らとつき合ってるんだい? 噂によればクスリや……。 聞きたくない! その強い口調に黙ってしまう。沙夜は両手で耳をふさいでいた。 彼女はしょんぼりとしている。血色のない肌は荒れていて、隈ができている。前より痩せたのか、手足が細く胸元に鎖骨が浮き出ている。 沙夜は頭を抱えたまま下を向いている。それから力をなくしたように目を閉じて、ぐったりと後ろ壁にもたれる。 沈黙が、忍び寄る。 彼女は頭を横に垂らして、じっとしている。 顔は髪に隠れていて見えない。下顎から喉にかけての白い皮膚が、しゃっくりをするように動く。鼻をすする音が聞こえる。泣いているのか。唾を飲み込んで、尋ねる。 何かあったのかい? 沙夜は顔を上げて、僕を見る。その瞳は潤んでいる。彼女は何も言わないで、僕の髪に触れる。 ねえ、こっちにきて。 沙夜の隣に座る。彼女は僕の肩に寄りかかった。 優しいのね。 黙って、彼女の頭が肩に触れているのを感じていた。 どうして優しいの? わからないよ。 私と寝たいの? 寝たくないと言えば嘘になるよ 沙夜は僕の手に触れた。寄りかかる彼女の身体の体温や僕の手に絡めてくる手指を感じていると、性欲が高まってくる。 裏口から外に出ようか。 うん。 沙夜の手をつないで立ち上がり、部屋を出て長い廊下に出た。廊下では、ガネーシャを描いたシャツを着た男が座り込んでぼんやりしている。距離を置いて、腕にタトウーを入れた男が足を投げ出してすわっていたり、額にビンディをつけた女が横になっていたりする。 彼らの足を避けながら、暗い廊下を進んでいく。鉄の階段を降りて、洞穴のような部屋を通り過ぎ、非常口のランプのついた扉の前に来る。重い鉄の扉を押すと、倉庫の裏側に出た。沙夜が僕の手を強く握ってくる。倉庫と倉庫の間から、街灯に照らされた幅広い道路が見える。遠くから、海のざわめく音がやってきて、テクノの響きと混じり合う。 廃屋と化した倉庫街は、ひっそりと静まり返っていた。地下の方からトランステクノのリズムと振動がかすかに伝わってくる。区画整理された土地に、規則正しく配置された道路や倉庫や駐車場などが、人気のない広々とした闇の底に横たわっている。とうの昔に機能停止してしまった倉庫街だが、縦横に走る道路に連々と沿う街灯が、息絶えて真っ暗になった土地を浮かび上がらせている。広い道路を通り抜ける潮風が、少し肌寒い。 大きな倉庫の入り口にやってくる。大箱のような部屋の奥は真っ暗で、街灯の明かりだけがうっすらと忍び寄っている。 倉庫の中へ入ると、僕たちはどちらからともなく抱き合った。彼女の身体の重みと温もりが、僕の身体にすんなりと溶け込んでくる。両腕の中で、自分と同質の生命体が息づいていた。 沙夜の顔に近づいていく。彼女は静かに瞼を閉じる。閉じた瞳は僕への信頼感だ。彼女に口づけをする。彼女は僕の唇を受け入れ僕の髪を愛撫した。唇をさらに押しつけ、彼女の唇を開く。熱い水の層が、奥深い暗がりで、緩やかに渦を巻き流れ始めた。彼女の唇の中へ舌を入れた。彼女の舌が僕のそれに触れる。沙夜は両手を僕の背中に回し抱きしめた。沙夜の生暖かい舌がかすかに動く。水流の温度が上がり渦を巻きながら押し寄せてきた。彼女の唇の隙間から息吹が漏れた。僕たちは、熱い呼吸の中でお互いの口の粘膜を触れ合わせた。声にならないほどの低い波動が、深海の水をどよめかす。目を開けることも息をすることもできないくらいの海の流れが押し寄せてきた。 やがて重なり合ったまま地面に転がった。どこかで鉄製の棒か何かが落ちる音が倉庫内に反響した。 途切れることなく粘膜と素肌を愛撫し合った。彼女の手は僕の背中をつかもうとするかのようだ。僕たちはお互いの存在を五感で感じようとした。 海底谷に沈んでいき、音のない激しい水流が身体を駆け巡った。沸き立つ奔流につき動かされ、僕たちはお互いの身体を求めて没入していった。彼女の裸体を何度も味わいながら、溢れた襞状粘膜の奥へと降りていく。沙夜は全身で僕を取り込むように強く抱きしめた。 沸き立つ海底谷で、リズムが最高潮に達した時、呻きとともに渦巻く水流が体内から溢れ出した。水流そのものになり、途方もなく深い海の淵に降り立っていった。 薄暗い海淵の底に、横たわった。周りは暗い翡翠色で何もない。混濁していて静かで暖かい。海水は音もなく停留していて、深海底にいることさえ忘れてしまう。 沙夜の隣りに身を横たえた。 彼女が僕に寄り添ってくる。彼女の手に触れると、彼女は僕の手を握ってきた。 とても静かで何もないところにいた。全てが沈黙を保ち、穏やかだ。背中に地面の堅さとひやりとした感触を感じる。身も心も地面に存在しているのを、今更のように知る。背伸びをしようと、人は重力に逆らうことはできない。地面に僕は存在していて、地面を通じて沙夜と繋がっている。顔を向けて沙夜を見る。彼女は上半身を起こして微笑する。倉庫の入り口からぼんやりと入ってくる街灯の薄白い明かりが、沙夜の笑みを照らし出していた。首にかかっているペンダントが、きらりと光る。円錐形の頂点に埋まっている瞳のような小石が、明かりを反射している。沙夜は僕に口づけをして言う。 卓と結ばれて良かった。決して後悔しない。 また彼女を抱きしめた。お互いを自分に融け込ませようと、肢体を重ね合わせ、皮膚や舌粘膜で確かめ合う。 やがて彼女は片手で僕の身体を抱いて、息絶えたように身体を休めた。背中を丸め膝を曲げて僕の胸に顔を埋めるようにじっとしている。その姿は、子供のようだ。よほど疲れているのか身体を弛緩させ、寝息を立てている。だが僕が少しでも動くと、行かないでというように、僕を抱く沙夜の手に力が入る。薄白い沙夜の寝顔を、街灯のか弱い明かりがやんわりと照らしている。肌が荒れていて唇に赤みがない。胸骨から口元にかけて影があり、頬が少し痩けている。肌が白いのは血色が足りないせいだろう。沙夜は僕の胸に完全に頭を委ねて、固く目を閉じぐったりとしている。 ふと、彼女の腕の内側に、いくつもの小さな点状の痣を見つけた。注射の跡だ。その腕を持って、目を近づける。急に沙夜が腕を振るって、僕を見た。 なんでもないわよ。看護婦さんが下手だったの。 彼女は腕を閉じて、また僕の胸に顔を埋めた。 なんでもないから安心して。 沙夜はくぐもった声で言う。 本当のこと言えよ。 疲れてたから、病院で栄養剤を打ってもらったの。本当よ。 僕が何も言わないでいると、彼女は顔を上げた。 私のことを嫌になったの? どうして? わけのわかんない奴だと思って。 彼女の不安げな顔つきを見つめる。沙夜は僕の手を強く握って言う。 でも本当よ、信じて、お願い。 沙夜は身を寄せて僕の口元にキスをした。 両腕をだらりとして、彼女の方を見ないで横たわっていた。彼女は僕の顔色を窺うように眺める。 本当なのよ。 ま、いいけど。なんだか覚醒剤の注射に似て……。 そう言いかけると、沙夜は身を起こして僕の首を両手で絞めた。 違うわよ! その剣幕に圧倒されて黙ってしまう。黙っていると彼女は僕の胸に顔を沈めた。 彼女の背中を抱いて、倉庫の暗がりの奥を見つめた。コンクリートの側壁に沿って、何本かの鉄筋柱が闇の奥へと消えていく。壁面の一部が崩れて、地面に破片が散らばっている。いくつかのコンテナが無造作に積まれていて、奥は闇に塗り込められ何も見えない。暗闇の向こうに何があるのかわからない。 月夜の海の向こうから、湿った空気が吹きつけてくる。沙夜の長い髪と長い黒衣が、潮風に大きくなびく。 僕たちは遠く離れた沿岸の、見知らぬ浜辺を歩いている。もう何時間も、砂浜に沈み込む足を引きずって歩いている。 底知れぬ漆黒の海と、星空との境界ははっきりとしない。闇の彼方から大きな黒い波が、海上を疾走しながらいきり立ってくる。大波は高々とそそり立ち、地鳴りのような響きをもって浜に打ち寄せる。潮風が音を立てて吹き荒れ、沙夜の長い髪が宙に舞い上がる。波はすばやく浜を駆け上がり、僕たちの足を濡らした。潮の匂いと湿気が身体にまとわりつく。 君って本当は、何してる人なの? アクセサリーを作ったり、読書をしたり、お料理をしたり……いろいろよ。 今もアクササリーを作っているの? うん。鋳造機とか道具はあまりないけど、糸を使って簡単なものを作ってるわ。 そうっか。学校は辞めたんだよね。 うん、でも平気。もういろいろ作れるわ。いつかアフリカの方に動物の歯や四肢骨を買い出しに行きたいの。バリの方では銀細工を学びたいわ。いずれは自分のお店を持ちたいの。 へえ。 感心して、沙夜の痩せた身体を改めて眺める。布地を巻きつけた長い黒衣が潮風に揺らいで、ウエストの括れと乳房の形が露わになる。 それはいいね。 あなただって何か書きたいのでしょう? そりゃそうだけど。 剃り忘れた髭をさすって、話題を変えた。 誰かと住んでるの? どうして? 恋人ぐらいいるんだろうなって……。 沙夜の顔が翳り、声の調子が低くなる。 いないわよ。人々に囲まれていても、ずっとひとりよ。 彼女は黙って、遠くの闇を見ている。現実に引き戻されて、海に目をやる。 暗黒の海は夜空と溶け合い、ゆったりとうごめいている。地平線がどこにあるのか判然としない。巨大な暗黒の生き物が、自由自在に流動している。遠くから波が海の上を蹴り上げ、走ってくる音がする。だんだんと大きくなり、けたたましい轟音を響かせて浜に襲いかかる。黒い飛沫が飛び散る。潮風が吹き荒れ、沙夜の長い髪と長い黒衣がぱたぱたとなびく。 再び波が轟きと共に打ち寄せ、砂浜をすばやく嘗める。 僕たちは黙って歩いた。砂浜は僕たちの前後に連なり続いている。見渡す限り広がる砂の堆積。どこまで砂が続いているのかわからない。遠方に岬が見えるが、その先はどうなっているのだろう。 沙夜が、途方もなく広がる砂浜のうねりの中へ走り出していく。砂浜のまっただなかにしゃがみ込んで、何かを拾っている。彼女は衣の裾ををたくし上げ、貝殻を拾っては砂を息吹で吹き飛ばしている。 彼女の後方の砂浜に腰を下ろし、その姿を見ていた。沙夜は貝殻や石を拾い、顔に近づけて見ては衣服で何度も拭いている。それから衣服に縫い付けてある袋状のポケットにしまう。 波がやってきて、砂浜に勢いよく滑り上がってきた。波の尾が沙夜の足元を掠める。 彼女は気にしない様子で、貝殻を拾っている。 沙夜の背後では、タールのような黒い海が、地球の広大な窪みの中で、あらゆる方角に小波を立ててうごめいている。海面を見たところ、一定の流れなどは見つけられない。均一で穏やかに見える。しかし奥深いところでは、もの凄い力で海水が渦巻き奔流しているはずだ。静かだが激しく流れ巡っているはずだ。それぞれの行き先を秘めて、一定の方向へ流動している。 暗黒の海は規則的に浜に打ち寄せ、その度に波の立ち騒ぐ音がする。 見て、綺麗な貝殻が沢山よ。 そう言って沙夜は立ち上がり、笑顔を向けて僕の方に歩いてきた。彼女は僕の前に座り、袋からいくつもの貝殻を取り出し僕に見せた。手の平には、つるりとしたサクラガイのような二枚貝やたくさんの突起が生えた骨のような貝、長細い巻き貝などがある。 それらを手に取って眺めた。沙夜は言う。 糸に通して首に飾ると、もっと綺麗よ。 それを返すと、彼女は大事そうに袋にしまう。 僕たちは再び歩き始める。 どこまでもなだらかに起伏する砂浜を、歩き続ける。 暗い空にうっすらと紫がかり始めている。地平線に接した東の夜空が、淡い暗紫色になっている。 だんだんほのかな光線が地球の遙か彼方から差し込んできて、その上空と海面に赤みがかかる。 空遠く横に広がっている雲は、朝焼けの微光をうけて、灰色がかった桜色の柔らかな綿のように見える。 海面は暁闇に包まれ、穏やかだが底知れぬ深さをもって波立つ。 波はこちらに向かいながらだんだん高くなり、弾けるように浜に打ち寄せてきた。水しぶきが頬にかかる。 沙夜の足と黒衣の裾が、浜を滑ってやってきた海水に浸された。 彼女は立ち止まり、じっと海の方を見ている。 魚になったら、気持ち良いでしょうね。 たぶんね。 潮風が彼女の髪と黒衣をなびかせ、僕の頬を掠って通り過ぎる。 湿っていて潮の匂いがする。人間の体液の匂いによく似ている。規則的に打ちつける波の音は、心臓の鼓動を思わせる。 沙夜が海の中へ入っていく。 足が海に浸かる。黒衣の長い裾が海面のうねりにたゆたう。 暗紫色に染まった空と地平線の間に顔を覗かせた太陽は、炎の珠になってその上空と海面に鮮やかな光彩を放ち、彼女を飲み込んでしまう。 ずっと遠くに行きたいわ。何もかも捨てて。 彼女は地平線にこぼれる朱の光を見ている。海は闇と光が交錯して揺らめき、暗い空にまだらな雲が浮き出ている。 俺もさ。 黒い波がいきり立ち、こちらに向かってくる。浜にぶつかって水飛沫が散る。潮風が吹きつけてくる。波の尾がすばやく走ってきて、僕の靴を濡らす。唾を飲み込み深呼吸をして、彼女の背中に向かって言った。 俺と一緒にやり直さないかい? えっ? 沙夜が振り向いた。顔は逆光で影になっている。 遠くに行って二人で暮らそう。 本当? ああ。 なんだか怖いわ。 俺は一人でも行くさ。 潮風が吹いてきて、シャツが胸に張り付き、沙夜の髪が舞い上がる。 彼女は海の方を向く。 海の向こうからやってきた黄金色の明かりが、暗い空と暗澹とした海面に溶けてゆらゆらと輝いている。 私も行くわ。新しく生まれ変わるのよ。 そうか。じゃ決行は明後日の朝だ。明日はぐっすりと眠ろう。みんなに秘密で始発の電車で行こうよ。 いいわ。絶対に見つからないわよね。 沙夜が振り返って、僕を見る。 ああ。見つかりゃしないさ。 今までになく沙夜は明るい表情で僕を見た。か弱い朝陽が、彼女の髪を柔らかそうに包んでいる。彼女は無邪気に叫んだ。 良かった! 今の生活を抜けられるわ。 そう、そうだよ。 と何度もうなずいた。 沙夜は砂に足を取られながら僕に駆け寄った。 あなたはライター、私はアクセサリーを作ってお金を稼ぐの。新生活が始まるのよ。 彼女は僕の腕にぶら下がった。重心が崩れたが、彼女を引きずって歩いた。彼女が両足を宙に上げると、僕は倒れかかった。彼女は尻餅をついて声を立てて笑い、衣服についた砂を払った。 踊りに行きましょうよ。 沙夜は弾んだ声で“アラヤ”を催していた倉庫街の方を指差した。 まだやってるかな。 今日は太陽が昇るまでやってるわ。 ようし、踊りまくろうぜ。 意気込んだ顔をして言うと、沙夜は笑った。 踊れるの? 大丈夫さ。なんだか身体がむずむずしてきた。 私も。 僕たちは走り出した。前方はずっと先まで砂浜だった。足が沈んで進まなかったが、ともかくも両足を動かした。 卓! 大好き! 振り向くと、沙夜が僕の背中に飛び乗った。前のめりになり転けそうになるが、彼女は後から僕を抱きしめてくる。彼女をおぶって歩き疲れると、今度は沙夜が僕をおぶった。転がったり歩いたり走ったりしながら、砂の隆起を進んでいった。 暗い倉庫内は、音とリズムで膨れ上がった巨大生物の腹の内部のようだ。心臓の音のように奥深くからリズムが響いてくる。フロアでは、人々が踊り狂っている。沙夜と手をつなぎ、心を弾ませて乱舞する人の群れの中へと入っていった。 高音の鐘の響きをもった電子音が流れ星のように生じては消えていく。その下で、巨大な数多くの太鼓をいっせいに打ちつける重低音がフロアを揺れ動かす。間隔をあけて鞭打つような音が入る。 空間に充満するリズムの波形が、うねりながら全身に流れ込む。その音は、心臓の鼓動と共鳴し血液を沸騰させる。周りの人間たちは、沸き立つ体液に乗って躍動している。体温が上昇していく。血液の中に精液が入り込み、理性が失われ頭が熱い空気に溶けていく。意志を感じなくても身体が動いている。 沙夜が闇の中で僕に笑いかける。照れくさいが笑い返す。どんな風な踊りをしているのだろうか、どんな風に見えるのだろうかとふと考える。だがそう考えた途端に、身体は音の波形からずり落ち、自分に縛られる。 何も考えない。ただ脳天を貫くような音と原始的なリズムに身を任せるだけだ。 何年もの歳月のうちに自分を縛り締めつけてきた呪いを解こうと、敵を狙うボクサーを真似たステップをして両手を上下に振り降ろす。 沙夜が僕の踊りを真似ようとする。彼女は僕の前に来て、笑いながら僕の動きと同じ動きをする。僕は笑い出してしまう。 バーカウンターの横にあるVIPルームのガラス壁の向こうから、人々に囲まれた洋が僕を見ている。 彼は片手を上げて僕に合図する。僕も両拳を頭上で上下させて合図する。 渦巻く音響の大洪水に乗って、僕と沙夜は自分自身の奥に入っていく。 凝り固まっていた思考回路や言葉が拡散していく。身体を動かしているという自覚がだんだんと薄れていく。身体が音楽の波形の一部になったかのように、全身が軽くなりボディイメージが希薄になっていく。 どこまで拡散していくのか。小さな無数の粒子が、限りなく開かれた空間へ散らばっていく。余白が広がっていき、ゆったりとした空気と明るさが生じてくる。 目を瞑る。音楽空間の中に漂っている一つの分子になる。僕は肉体の重さが消失した、エネルギーを発散し白熱しているただの気体分子だ。 躍動する透明なエネルギーの塊になる。 無感覚に近い肉体。奥深いところからこみ上げてくる温度、熱、力。 瞼をうっすらと開けるが、汗で見えない。 瞬間的に閃く光、闇、光、闇。 気がつくと、僕たちは好き勝手に踊り狂う人間の群れのほぼ真ん中にいるようだ。一人一人が自分の踊りに没入していて、他人を見ていない。 だが不思議な連帯感を感じる。自分自身に没して踊る人々の群れの内に、目に見えぬつながりができている。 地面から靄が這い上がってくる。渦を巻いてゆっくりと上向きに流れ、人々を包み始める。ライトの閃きを浴びて、青白く光る。 靄の中で、踊るまくる人々。 地面を打つ規則的な重い響き。空中を駆け抜ける鋭利な金属音。空高く吹き抜ける風音。波音。海のとどろき。 人間たちが踊り狂う。歓喜の叫び声。 沢山の裸足が浜を蹴り上げ跳ねる。 激しいリズムで、敏捷に躍動する数多くの裸身。 ずぶ濡れの汗と熱気で筋肉質の身体がてかてかしている。陽炎が上昇していく。 火に照らされた恍惚の顔、顔、顔。 燃える炎。 炎の向こうに、沙夜がいる。 身体に巻きつけたような黒衣の裾がなびいて、瞳を模した大きなペンダントが左右に揺れ動いている。 沙夜は背筋を伸ばして両手を空高く上げて、天から何かを引き降ろすような動きをしている。足で地面を交互に踏みながら、上半身を伏せるように両手を腰の後ろまで振り降ろす。 彼女だけの踊りだ。 大きな火炎を透かして、沙夜が浜で無心に踊っているのが見える。彼女は僕の視線にも気づかない。 靄の中を発光体が飛び交う。大気を揺らがす振動と大音響。鳴り響く電子音の力強い鼓動は、天空へ伝播する。 誰もが浜で恍惚として踊っている。無心の大気流が上昇する。 体液が沸騰し、歓喜の声が上がる。汗と息の蒸気は宇宙へと立ち上がり、森羅万象は音楽とリズムに共鳴している。 靄が消散し、改造された古びた倉庫の剥きだしの鉄筋や落書きされたコンクリート壁が露わになってくる頃、僕たちは踊り疲れて壁に寄りかかった。沙夜はバーカウンターからプラスチックコップに入ったワインを二つ買ってきて、一つを僕に手渡す。僕は言う。 踊りって面白いんだね。 そうよ。今日が一番楽しかったわ。 彼女は僕を見上げる。 踊る人々の渦中にいる洋が、僕たちを見て片手を振り上げ、一方の手の指で口笛を鳴らし合図する。 地底から振動してくるような重低音のリズム。人造人間の叫び声のような電子音が飛び交う。 彼の踊りはますます激しくなり、領域を広げ自分のものにしていく。脚をバネにして人々の間を巧みに移動しながら踊る。彼は踊りながら身軽に駆けているようにも見える。タンクトップがびしょ濡れで、頭を振るたびに汗が飛び散る。爽快な汗だろう。やがて彼は、人々の群れの奥深くに入ってしまい姿が見えなくなる。 ワインを一口飲んで、言う。 明後日の朝、必ず来るよね。 もちろんよ。今までの生活とはお別れよ。 彼女の手を握りしめた。 約束だよ。 約束ね。 僕たちはプラスチックコップをぶつけて乾杯した。 圧倒的な音とリズムで空気全体が揺らぐ。突き抜ける閃光。 上半身裸の男が、弾力性の良いバネのような両足で低く跳躍しながらフロアを行き来している。彼は仰け反りながら、拳にした両手を宙に向けて激しく交互に動かしている。肩や腕のいくつもの盛り上がった筋肉が伸張しては収縮し、汗がほとばしっている。エネルギーが身体全体から発散されている。ブラックライトが彼を照らす。上気した汗だくの顔で目を瞑っている。開いた唇の間に、歯だけが青白く浮き上がる。 天地が割れるような響きをもった音の波形が、さらに空間を揺れ動かす。彼は両手を頭上に上げ、宙を打ちつけながら口笛のような歓声を上げる。瞬発力のある彼の肉体はますます跳躍し、汗が吹き出る。彼の踊りは絶え間なく続く。 心臓の鼓動が聞こえる。耳には届かないが、目に見えない無限につながる入り口から、途轍もなく大きな陽炎のようなエネルギーが、規則的に吐き出されている。地の底を打つような音のない響きだ。 それは都市の夜の“アラヤ”を揺さぶる重低音の電子波動、大海を走る波のうねりが、大気を切り開きながら高くなる時の吹きすさぶ風の震え、心臓の大動脈から、大量の血液が送り出される時の脈動音に似ている。 濡れた柔らかな襞状粘膜、絡み合う裸体の感触と喘ぎ、子宮に到達しようとリズミカルに動いていた記憶が甦り、身体が熱くなる。走り出したいような、セックスをやりまくりたいような欲望に駆られる。 つづく |