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| 黒い夜気が街に降り始めた頃、ようやく都心に入った。もうすでに街は色鮮やかなビーズやガラス片を散りばめたような人工照明に溢れている。極彩色に発光する看板や店の照明で明るい繁華街の、片側三車線の大通りを走った。前方には高層ビルがそびえ立っていた。雑多な騒音がフロントガラスの向こうに渦巻いている。助手席のシートに置いてあるバッグの中の携帯が鳴った。きっとスィヤだろう。前方の信号機が赤になり停車したが、携帯を取らなかった。 信号機が青になった。発進して左折する。着信音は鳴り続けていたが、止んだ。大通りから逸れて駐車場に向かった。地上げをされて、空洞化してしまった安普請の住宅が密集する地域に入り、路地を徐行し、駐車場に戻っていった。 樹木の下の丸太の前に、人影が見えた。シズナの車のライトで周囲が明るくなりスィヤが照らされた。車を停めるとスィヤが近寄ってきた。シズナが運転席のパワーウィンドウを下げると彼は言った。 「どうだった?」 「大丈夫だったよ」 彼女は素っ気なく言い前照灯に照らされたブロック塀を見た。 「ありがとう。おかげで契約もうまくいったよ」 「本当?」 シズナは彼を見上げた。 「うん。とりあえず三十枚納品したんだ。お金はもうすぐ銀行に振り込むって。しばらく売れ行きの様子をみて、今度は年間契約してくれるって」 「それは良かったわ。うまくいくといいね」 スィヤは笑ってうなずいた。彼は助手席のドアの外に回り、ウィンドウガラスを叩いた。シズナがドアロックを解除すると彼は助手席に座った。彼女は前照灯はつけたままエンジンを切った。 「ごめんね。俺がいけなかったから」 「ううん、いいのよ。お仕事はうまくいったんだし」 スィヤの活動的な様子を見ていると、シズナは自分の犠牲的な苦労が小さなことのように思えた。 「モニカは?」 「知らないよ」 「さっきまで一緒にいたじゃないの」 「あんな女、もういらないよ」 「そうなの?」 急にスィヤの携帯が鳴った。はい、と彼が日本語で電話に出ると、スペイン語で話し始めた。シズナは黙ってブロック塀を見つめた。彼はスペイン語で言い争っている。 高い塀が押し迫ってくるようだ。雑草や苔が黒々しく生えていて、どこかにグロテスクな昆虫が隠れていそうだった。塀の向こうには倉庫の壁に巻き付いている波状鉄板とトタン屋根があり、枯れた雑木の影が夜空に突き出ていた。空一面厚い雲がかかっていて、風で早いスピードで流れていた。流れる雲の間におぼろげな月が出ている。彼は荒々しいスペイン語で話していたが、途中で通話を切った。すぐに彼の携帯の着信音が鳴った。だが彼は通話ボタンを押さないで電源を切って言った。 「もう、モニカとは別れたよ」 シズナはスィヤの顔を見た。月の薄明かりで、顎や頬骨の隆起が褐色の肌に影を落としている。彫りの深い眼窩の奥で、睫の長い大きな瞳がシズナを見つめていた。 スィヤは彼女の肩を引き寄せて、口づけをした。二人はずっと唇を合わせていた。彼らの息が荒くなってきた。スィヤはシズナの身体を持ち上げるようにして助手席に移動させ、自分の身体の上に乗せた。シズナは彼の身体に重心をかけるように重なり口づけをすると、彼は舌を入れてきた。彼女の身体が火照って下半身の輪郭がぼんやりしてきた。彼は起き上がって、車のウィンドウを見回した。 「誰か来ないかな」 「こんな夜中に誰も来ないよ」 シズナはスィヤを引き寄せるように首に両手を回して、はだけた胸にキスをした。スィヤは運転席のシートを前方に倒して駐車ブレーキを跨ぎ後部座席に行った。スポーツバッグの中からTシャツを取り出して衣紋掛けに掛け、両側のウィンドウを塞いだ。クッションやスポーツバッグをトランクカバーの上に乗せ後方のウィンドウを遮蔽する。 スィヤは振り向いて、シズナの手を取った。彼女も駐車ブレーキを跨ぐようにして通り抜け、彼の身体にしなだれかかった。二人は抱き合って口づけをした。スィヤは上になって彼女の項から首筋へと唇と舌を這わせていった。彼が彼女のブラジャーを外してTシャツをたくし上げ乳房を触ると、シズナの全身が脈打った。お腹の下の方が熱くなり融けていった。粘膜がぬるぬるしてきて、スィヤに早く入ってきて欲しかった。彼がシズナの下着に手をかけると、彼女は腰を浮かせて脱いだ。スィヤもジーンズと下着を脱いだ。二人は裸同然の姿で抱き合い、互いの肉体を受け入れた。 真っ暗な車内で、二人は衣服を裸の身体にかけて抱き合っていた。真夜中の静けさの中、冷房のモーターと風の音だけがしていた。 「暑いな」 スィヤは身を起こした。彼はフロントガラスや遮蔽されたウィンドウの隙間から見える外界を見回しながら、パンツやズボンを穿いた。シズナも起き上がって言った。 「どこ行くの?」 「どこも行かないよ。ねえ、ここは暑いし狭いから、シズナの部屋に行こうよ」 彼は左右前後のウィンドウを見回して外を気にしながら言う。 「わかった」 シズナは下着をつけてジーンズを穿き始めた。二人は車の外に出た。横にはクレーン車がクレーンを高く上げてひっそりと駐まっていた。向かい側の樹木のそばでは黒い街宣車が枝葉の下でうずくまっている。古アパートは真っ暗で、長年放置されている朽ちた空き家に見えた。ブロック塀に沿って生えている苔や雑草が色々な形になる。周囲は様々なものの黒い影に囲まれていた。 二人は駐車場を歩いて路地に出た。人通りのない夜道を手をつないで歩いて、彼女のマンションに向かう。建設中止になり骨組みだけが長い間放置されている空き地や駄菓子屋を通り過ぎていく。 モルタル塗りの木造家屋とブロック塀に挟まれた路地を歩き、突き当たりのシズナのマンションの前に来た。マンションの裏には雑木や藪が茂っている。古いけれども、階段や廊下が開放的で、建物に蔦が這っているのがシズナは気に入っていた。廊下には壁はなくコンクリートの手摺りがあるだけで、それぞれの部屋の扉と小さな窓が見えた。 一階のアリとホジャの部屋の窓は真っ暗で誰もいないようだった。 「一階にホジャが住んでいたのよ」 「体の具合はどうなったのかな」 「わかんない……」 「今度、お見舞いに行ってみようか」 「ええ。行ってみましょう。気になるもの」 彼女の部屋は二階の奥で扉は路地からは見えない。シズナを先頭に、裸電球が弱々しく灯っているマンションの階段を上がっていく。踊り場を通ってまた階段を上ると、二階の廊下に出た。廊下を見通した時、シズナの部屋の扉の前に誰かが立っているのが見えた。 シズナとスィヤは立ち止まった。天井に吊されている裸電球の明かりで、コウスケの太った顔がぼんやりと浮いている。 「シズナ……、誰、こいつ」 コウスケが不審な顔をして言った。シズナは黙った。彼女が口ごもっていると、スィヤも彼女に言った。 「誰?」 シズナはスィヤに言った。 「友達よ」 「こんな夜遅くに?」 シズナが頷くと、ふうん、とスィヤは後を向いて階段を降りていった。コンクリートの階段を降りる足音が響く。シズナも後を追って階段を降りた。マンションの外に出ると、彼はブロック塀と家屋に挟まれた路地を歩いていた。 「スィヤ!」 彼女は呼びかけた。彼は振り向きもせず角を曲がり、姿を消した。シズナは走って角まで来たが、スィヤの姿はどこにもない。暗い道があるだけだった。道の両側に並ぶ木造家屋も真っ暗で静まりかえっている。シズナは引き返した。マンションの階段を上がり、コウスケが立っている廊下まで来た。 「どうしたの? こんな夜に」 「どうしたのって……いつもの事じゃないか」 コウスケは目を瞬いた。彼は言った。 「あの男は誰だい?」 「誰だっていいじゃないの」 「あっそう」 「もう遅いから帰って。私はもう寝るだけ」 彼女は鍵をといて部屋に入り、扉の内側から鍵をかけようとしたがコウスケのことが気になってまた扉を開けた。 「何か用?」 「何か用って……恋人じゃないか」 「そうだっけ」 「エッチしたじゃないか」 「コウスケがやりたいって言ったから……」 「じゃお前、男がやりたいって言ったら誰とでもやるのかい?」 「そんなことないよ。コウスケには良い感じを持ってたの」 「じゃ俺はただの友達かい?」 「そうみたい」 「まあいいや。じゃまた助けてくれるかな。やりたくってさ。俺だって誰でも良いってわけじゃないんだよ。シズナはマグロだけど、好きだって気持ちがあるから来たんだ」 「私はコウスケに、もうそんな気持ちないの。コウスケの事は好きじゃなかったみたい」 「どうしたんだよ、急に冷たくなって」 「だって、コウスケったらつまんないだもん。毎日好きでもない仕事のために仕方なく会社に行って、楽しみは食べることと飲むことだけ。太る一方で、一緒にいると憂鬱になっちゃう。前はもっと夢があったじゃないの」 「生活のために一生懸命に頑張ってるんだよ。夢だとか好きな仕事だとか言ってられないよ。現実は厳しいんだぜ。つまらなくても毎日働いていれば多少なりともお金は貯まるし、世の中の役に立つんだよ」 彼女は扉を閉めた。 「おい、開けろよ」 コウスケはノブを回して引っ張り、扉を開けようとした。シズナは内側から鍵を掛けた。耳を澄ませていると、コウスケの足音は次第に遠ざかっていった。 冷房を入れて、テレビをつけニュース番組を聞きながらTシャツと短パンに着替えた。ブラウン管では、オウム真理教が名前を変えて活動し、不審な新興宗教団体に入信する人々が増加している、という話をしていた。風呂場に行って湯を入れる。歯ブラシを持って部屋に戻り、ブラッシングをしながらニュース番組を観た。コマーシャルの後は、ニュースキャスターが、凶悪化する少年犯罪や学校での集団による虐めについて、景気の低迷で株価が最安値を更新したことを伝えていた。 洗面所に行って口をゆすぎ、風呂場で身体を洗った。乳房やお腹や膣などのあちこちにスィヤの身体の感触が残っていた。スィヤともっと一緒にいたい。だが他の男性との出会いやつき合いを全て断ってまで、二人で暮らすことには不安がある。仕事がうまくいくのかどうか、スィヤとの将来は明るいものなのかどうかを考えると、人生の他の可能性を閉め出してスィヤの人生に深入りしていくのは怖かった。かといって、コウスケの生き方や生活にも深入りしたくない。彼の漠然とした生き方を尊敬することができなかったし、一緒にいても退屈で、素肌に触れたりセックスをすることにも違和感があった。 風呂場から出て寝間着用のTシャツと短パンを穿き、テレビを見た。ニュース番組では麻薬密輸組織の不法滞在の中国人ボス、売春斡旋を行っていた日本人ブローカー、売春をしていたコロンビア人やフィリピン人が逮捕されたと報道していた。 画面の上方に、<不法就労外国人対策キャンペーン>という横断幕が掲げられた。ニュースキャスターが「不法就労が増えています。外国人の不法就労防止にご協力ください。不法就労と思われる外国人や、働くことを認められていない外国人を雇った事業主や、不法入国を援助した人を見つけた場合は、こちらにご連絡ください」と電話番号やメールアドレスが書いてあるボードが大写しになる。 部屋の電話が鳴った。自宅の電話番号は家族とコウスケとスィヤと店の人しか知らない。夜中の電話だから、緊急の用事だろうかとシズナは受話器を取った。聞き憶えのある女の声が飛び込んできた。 「あんた、さっき、どこいた?」 モニカだった。 「どこだっていいじゃないの」 「バアカ! スィヤになにした?」 「うるさいね、もう」 ガチャリと受話器を置いた。シズナはテレビの音量を上げた。画面の中では日本経済をどう立て直すかという議論がなされていた。また電話がかかってきた。無視してテレビを見続けていると、呼び出し音が際限なく鳴り続ける。また受話器を取った。 「あんたスィヤになにした?」 「あんたに関係ないよ」 「カンケイ、ナイ? バアカ!」 シズナは受話器を置いた。テレビを消して布団を敷いていると、また電話が鳴った。シズナは受話器を取って言った。 「何だよ」 「バアッカ! バアッカ! トンタ! プゥタ!」 彼女は甲高い声で叫ぶ。シズナはガチャリと受話器を置いた。また呼び出し音がけたたましく鳴る。シズナは電話機のジャックから電話線を引き抜いた。電灯を消して毛布の中にもぐる。毛布を被ってじっとしていると、今度は携帯の呼び出し音が突然鳴り始めた。モニカは携帯の番号も知っているのだろうか、自宅の電話番号もどうして知ったのだろう。シズナは憂鬱になった。携帯を取って耳に当てる。相手は無言だった。彼女は通話ボタンをOFFにした。携帯を見つめていると、また鳴り始めた。相手の電話番号が表示されたが、知らない番号だった。通話ボタンを押して、シズナは言った。 「誰?」 「ころしてやるうう!」 モニカの低い声が、携帯の奥で地鳴りのように響いた。シズナは通話ボタンをOFFにした。また、携帯が甲高く鳴り響く。彼女は電源を切った。音はぴたりと止んだ。 ため息をついて、携帯を充電器に戻し、毛布の中にもぐった。夜は習慣として窓ガラスを閉めていたので、暑苦しかった。シズナは起き上がって窓ガラスの所に行き、鍵がかかっているかどうかを確かめた。布団に戻って横たわり、タオルで額を拭った。目が冴えていたが、天井の黒い染みを見ると怖くなるので、目を閉じた。数を数えていると、いくつかわからなくなって考えた。ますます意識が冴えてくる。無理に瞼を閉じてじっとしていたが、眠れない。星一つない真っ暗な空が、カーテンの隙間から覗いていた。 目覚めて時計を見ると、針はいつもの起床時間を示していた。部屋は薄暗く、カーテンの隙間から漠とした明るさが入っているが、朝陽の輝きは感じられない。起き上がってカーテンを開けた。霧のような小雨が降っていて家々のトタン屋根や路地が濡れていた。空一面のっぺりとした白い雲で覆われている。窓ガラスを開けると、湿った涼しい風が入ってきた。 新しいTシャツと膝丈のジーンズに穿き替えて、朝食のためのパンを買いに部屋を出て行った。 一階のアリとホジャの部屋から、テレビの音と小さな話し声が聞こえる。ホジャは退院したのだろうか。部屋をノックしてみると、テレビの音も話し声もぴたりと止んだ。しばらく静寂していたが、ペルシャ語で返事が返ってきた。 シズナが名乗ると、すぐに扉が開いて、アリが笑顔で迎えた。 「先日は、ありがとうございました。朝ご飯、一緒にどうですか」 「ありがとう。でも遠慮しときます。ホジャさんはどうしたのかしら」 「手術は成功しました。今病院にいます」 「良かったわ。でもこれからが大変ね」 「私とホジャは、難民申請をすることにしました」 「難民申請?」 「はい。私とホジャはイランに住みたくないんです」 「難民になるのも難しいかも……」 アリの穏やかな表情から意気が消えたが、気を取り直したように言った。 「ダメだったらカナダに行きます」 「そうね。それが良いと思うわ。きっとなんらかの道があると思う。何かあったら連絡してくださいね」 「はい。いろいろありがとうございます。お金は必ず返します」 シズナは微笑んだ。傘をさして、雨や湿気を吸い込んで柔らかくなった土の道をいく。舗装された路地に出て、駐車場の入り口まで来た。 古アパートの横を通り駐車場に入ると、シズナの軽自動車が昨夜と同じように停めてある。昨夜狭い車内で裸同然の姿でスィヤと抱き合ったことを思い出して、身体が熱くなった。今度は自分の部屋に彼を呼ぼうと思う。 駐車場から出ようとした時、見慣れない様子に気づいて立ち止まった。車体の前部から後部まで太い傷がずるずると何本も走っている。近寄ってみると、尖ったもので打たれたような小さな深い傷も沢山ついていた。運転席のウィンドウから、フロントガラスの一面に蜘蛛の巣のような大きなひび割れがあるのが見えた。左右のドアミラーも壊れて地面に向いてぶら下がっている。モニカだろうか、真夜中にかかってきた電話のモニカの剣幕から、彼女だと直感した。シズナは走って路地に出て、表通りにある公衆電話ボックスに入った。急いでスィヤに電話をする。呼び出し音を何十回も鳴らした後、スィヤが日本語で出た。 「もしもし」 「スィヤ、大変よ。車が壊されたの」 「ええっ」 彼はすっとんきょうな声を上げた。 「モニカがやったんでしょう」 「まさか」 「まさかって、本当にモニカを信じてるの?」 一瞬の沈黙があってスィヤは言った。 「だって俺の彼女じゃないか」 今度はシズナが沈黙した。 「あっそ。でもきっとモニカよ。モニカが壊したのよ」 「俺の彼女なんだから、そんなことしないよ」 「後で警察に来てもらって調べるよ。とにかくもう車は使えなくなっちゃった」 「困ったね」 「早く来てよ」 「わかった」 電話を切って、表通りから路地に戻り駐車場に行った。車に目を近づけて車体やタイヤを点検した。傷の他にも窪みが何カ所もある。タイヤもサイド部分にナイフのようなもので何度も切られたり突かれたりしていてパンクしていた。事故でバンパーが外れかけ方向指示灯のガラスも破損していたので、廃車のようにみすぼらしい。安い中古車とはいえ気に入っていた車だった。修理するよりは、他の中古車を買った方が安い。車検が切れるまで半年は残っていた。スィヤはまだ来ない。シズナは腹が立ってきた。もっと早く来て心配してくれれば良いのに。そうすると、腹の虫もおさまるような気がした。 スィヤは来なかった。シズナは落胆して淋しくなった。がすぐに、怒りで煮え返ってきた。大股で路地を歩き表通りに出て公衆電話の前に来ると、乱暴にスィヤの携帯の番号をプッシュした。シズナを待っていたかのようにすぐに相手が出たが、こちらを窺うように黙っている。 「もしもし」 シズナが苛々した調子で言うと、いきなりモニカの感情的な声が耳をつんざいた。 「OHH! バアッカ、シズナ。スィヤ、パーキングいかない。あんたバアッカ」 「スィヤを出してよ」 「スィヤ、あたしをすき。あんたをきらい、バアッカ」 と叫ぶとガチャリと電話を切った。シズナは血が頭に上るのを感じながら、またスィヤの携帯に電話をした。すぐに相手は出たが沈黙している。シズナは言った。 「スィヤはどこ」 「バアッカ、あんたしつこい、スィヤ、あんたみたくない」 ガチャリと電話が切れた。舌打ちをしてまた電話をすると、今度はスィヤが出た。 「もしもし」 スィヤの声を聞くと、憤りが頂点に達して叫んだ。 「あんた、車をどうしてくれんのよ。もう使えないじゃないの。あんたたちが壊したんでしょう!」 「どうして俺たちのせいにするんだい。シズナの彼氏かもしれないよ」 「なんですって、あの人は車がある場所も知らないの。それに彼氏じゃないよ」 「彼氏じゃないの?」 「そうよ」 「誰?」 「ただの友達よ」 「ふうん、泊まったの?」 「すぐに帰ったよ」 「そう?」 「そうよ。車を壊したのはモニカでしょう?」 「そうかもしれない、聞いてみる」 電話口の向こうで、スィヤのモニカを呼ぶ声が聞こえた。モニカとスペイン語で何かを言い争っている。彼がシズナに言う。 「真夜中にモニカはいなかったんだ。ずっといなかったんだから変だよ。これから叱ってやる」 シズナの胸は少しはおさまった。 「ねえ、それより、車がひどいの、どうしよう」 「大丈夫だよ。僕がたくさん仕事して、新車を買ってあげるよ」 「明日から仕事に使えないじゃない」 「僕が修理するよ」 電話の向こうから、スペイン語でまくし立てるヒステリックなモニカの声が聞こえた。 「じゃ、今から行くよ」 「うん」 怒りのテンションが下がり、受話器を静かに置いた。駐車場に戻り、樹木の下で出入り口の方を見ながらスィヤを待った。いつの間にか小雨は止んでいて、空全体に広がる分厚い白い雲がぼんやりと地上を明るくしていた。 錆び付いたドラム缶の壁面が小さくくりぬかれていて、内部は黒く煤けていて灰が積もっている。その横では壊れた自転車が横倒しになっていた。周りには焦げた草木、タイヤ、新聞紙や雑誌の束などが積み上げて捨ててあり、幾らかが周囲に散らばっている。どれもが濡れていて、紙や朽ちた枝葉が地面に張りついていた。 シズナの車も廃車のようになってしゃがんでいた。街宣車はずっと同じ位置に駐まっていて、動いた形跡はない。後部座席や助手席のウィンドウには鉄格子があり、黒い車体には日の丸が描いてあった。 シズナは樹木の下の丸太に座り、駐車場の出入り口を見つめた。路地を行き来する人もなく、車もバイクも通らない。もうすぐスィヤが来るはずだ。彼女は遠くに耳を澄ました。バイクの音は聞こえなかった。また、モニカと言い争っているのだろうか。シズナはスィヤの携帯に電話をしたかった。携帯を持ってこなかったのを後悔していると、出入り口に人が現れた。モニカだった。モニカは深刻な顔をして、一人でこちらに向かって歩いてくる。瞼が赤く腫れていて充血していた。シズナは言った。 「あんたでしょう、私の車を壊したのは」 「シズナ。あんたわるい。あたしのコイビトとった」 「別に取ってないわよ。スィヤを好きなら一緒に暮らしてればいいじゃないの」 「あたし、スィヤのためニホンいる」 「あっそう、あんたが日本にいる理由なんて私とは関係ないわ」 モニカは詰め寄った。 「カンケイ、ない?」 「そうよ」 モニカは鼻で笑った。 「あんたのクルマこわれる、スィヤとあたしカンケイない」 「なんですって。真夜中に電話かけてきて脅したくせに。一緒に警察に行こう。どうせオーバーステイでしょう。売春してたんでしょう。早くコロンビアに帰れば」 「あたしちがう」 「嘘つき! あんたが壊したくせに!」 シズナは怒鳴った。モニカは赤く腫れた瞼を瞬いた。 「あたし、コロンビアにかえるかどうか、いまきめる」 モニカは充血した目でシズナを見つめた。 「早くコロンビアに帰ればいいじゃないの。私には関係ないよ」 「カンケイある、あたしスィヤのため、ニホンいる。あたしニンシンした。あかちゃんオナカいる。スィヤとシズナ、いっしょになるだったら、あたしコロンビアかえる」 「あんたらの間に子供ができるんだったら、スィヤと結婚なんてしないわ、あんたやあんたの子供と関わりたくないもん」 モニカは黙った。彼女は充血した目を瞬いて呟いた。 「コロンビアかえって、ファミリーつくりたい」 「警察に行こう、早くコロンビアに帰れるわよ」 「でも、スィヤすき」 「あっそ。あんた、警察に行かないなら車弁償してよ」 「スィヤする」 「ふうん、お幸せに」 シズナはそっぽを向いて言った。モニカは泣き腫らしたかのような赤くむくれた顔をしていた。鼻をすすり下を向いて、地面の土や石ころを小さく蹴っている。 遠くからバイクの音が聞こえてきた。スィヤがエンジンを鳴らして駐車場に乗り込んできた。バイクをドラム缶の近くに停め、エンジンを切る。ヘルメットを脱いでシズナとモニカを交互に見た。彼はバイクから降りて二人に近づいて言った。 「モニカ、謝れよ」 彼が日本語で言うと、モニカはスペイン語で言った。 「ノ!」 「お前が悪いよ」 「スィヤ、あんたわるい。あんたさっきシズナだいきらい、いった」 スィヤはシズナに向かって申し訳なさそうな顔をして言った。 「こいつが嫉妬して暴力ふるうからさ」 「あたし、しっとしない。シズナとスィヤ、わるい」 モニカはスィヤを蹴り始めた。 「モニカ、謝れよ、まだわからないのか」 彼はモニカの太い足を素早く除けて、両腕を取り組み押さえつけた。 モニカの赤く腫れた瞼から涙が出てきた。 「あたし、コロンビアかえる」 スィヤは急に力を緩めて腕の間からモニカを見た。モニカは下を向いて、しゃっくりを上げた。彼は手を離した。 「いっしょ、コロンビアかえろう」 彼女はスィヤを見て言った。彼はモニカを見つめた。 「それはできないんだ」 「どうして?」 「コロンビアは俺の国じゃない」 「ニホンだってスィヤのくに、ちがう」 「俺は日本で仕事をしたいんだ」 モニカは肩を落として下を向いた。手で涙を拭いながらぼんやりと地面を見つめる。急に薄ら笑いを浮かべて、天然カールの前髪の隙間からシズナを睨んだ。と、モニカはシズナに突進した。シズナが後に引き下がろうとした瞬間、モニカは飛びかかり彼女の首を両手で掴んだ。シズナは悲鳴を上げてモニカを振り切ろうとした。 「ころしてやるうう! ぜんぶあんたわるい! あんたのせい!」 昨夜聞いた男のような太い声で怒鳴り、怪力でシズナの髪を引っ張り首を締め上げた。息のできなくなったシズナは掠れた悲鳴を上げた。モニカから離れようとしても、指が肉に食い込んでくる。 「やめろよ」 スィヤが中に割って入り、モニカの両腕を掴んだ。モニカはスィヤを突き飛ばそうとして取っ組み合いになった。頭皮と首を痛めたシズナは、荒々しい息をして言った。 「何よ、この女。スィヤもバカな女とつき合ってるのね、がっかりよ」 「こら、謝れよ。こら」 スィヤはモニカを取り押さえて揺さぶった。 「もうあんたたちとつき合いたくない! スィヤ、あんたの店にはもう行かない。車を弁償してくれるまで、あんたの店で働かない!」 「モニカ、謝れって言ってるだろ」 スィヤはモニカを叱った。モニカは黙っている。 「あんたたちと関わりたくない。この車は二十五万で買ったんだから、二十五万円払ってちょうだい。あんたのせいで警察まで行って怒られて書類まで書いて来たんだからこれでも安いよ」 スィヤはシズナを見つめた。 「わかったよ」 彼は肩を落として呟いた。 「できるだけ早く払うよ」 「必ずよ。どうやってお金を用意するつもり?」 「この間納品したサンキュウ商事にお金を催促するよ」 「念のため、あんたのパスポートをコピーさせて」 「ここにはないよ」 「免許証でいいよ」 スィヤはため息をついた。彼はバイクに戻り、シートの下の小物入れからバッグを出した。中から小冊紙のような証書を取り出す。いつか、スィヤと公園で初めて会った時に見たイランの免許証だった。彼はシズナに差し出して言った。 「僕のイランの免許証を預けますよ。僕の実家の住所が書いてあるから。もし僕がイランに帰ることあったら、連絡してください。イランの免許証は誰にも渡したくないんだけど、シズナには特別だよ」 彼女はそれを受け取った。彼は日本の免許証も見せて言った。 「コピーする?」 シズナは黙っていた。 「必ず弁償するから」 彼は言う。モニカは黙って二人のやり取りを見ていた。シズナは言った。 「イランに帰るの?」 「帰りたくないけど、お店が失敗したら日本には住めないよ」 彼は濡れた地面を見つめていたが、顔を上げて言った。 「でもシズナに車を弁償するまで、日本にいるから安心してください」 「そう、じゃひとまず車のキーを返して。廃車にして処分するから。明日コウカブに事情を話して、お仕事を休ませてもらうわ」 「そうですか」 「さあ、キーを返して」 シズナは手の平を差し出した。スィヤは下を向いたまま、ゆっくりとズボンのポケットからキーを取り出した。シズナはキーを受け取ってモニカに振り向いた。 「スィヤはあんたのもの。もう私の前に現れないでちょうだい。お幸せにね」 シズナは車のキーとスィヤのイランの免許証を手に持ち踵を返した。駐車場の出入り口に向かって歩き始めると、後からスィヤの弱々しい声がした。 「ねえ、シズナ……」 シズナは振り返らずに早足で歩く。スィヤがこちらに歩いてくる気配がした。彼女が横目で少し後を見ると、スィヤと後に続くモニカがシズナを追いかけてくる。シズナは駆けて古アパートを横切り路地に出た。二人が小走りでやってくる靴音がしたので、彼女は速度を上げて走った。古い倉庫や木造家屋、雑草の生い茂る空き地を通り過ぎる。後を振り返って彼らが追ってこないことを確認すると、走るのをやめた。モルタル塗りの家屋とブロック塀がある小道を歩きながら後を振り向いたが、誰もいなかった。蔦の這うマンションの前に来て、階段を昇り自分の部屋の前まで来た。手摺りから下を見下ろしたが、追ってくる人間はいない。 部屋に戻り、戸締まりをした。風呂場や部屋の窓ガラスも閉めて鍵をかける。急に眠くなった。昼間だというのに疲れて、カーペットの上に寝転がった。身体の下にあるのはスィヤから貰った花文様のキリムだった。しっかりと織った天然の布地の肌触りがした。指でそっと撫でてみた。汗を吸い取るような草木の乾いた匂いがする。 この場所でずっと寝ていたい。花文様に織っていくのは随分と時間がかかったことだろう。緑や赤や黄色などの華やかな色彩でも落ち着くのは、草木染めのためだ。 イラン製の草木染めのキリム……。品質が高くて値段の高いものだ。ゆっくりと目を閉じた。目の奥から滲んでくるものがあった。眠いのでそのままにしておくと涙が出てきた。何も考えまいとして瞼を硬く閉じた。目尻から涙がこぼれてきて、こめかみを伝いキリムの上に落ちた。茜色の花びらが濡れて、染みができた。 |