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| コウスケはよく食べた。すき焼きの三分の二は彼の胃袋に入り、さらに大盛りのご飯を何杯も食べた。ビール瓶も何本も開けてジョッキで一気に飲んでは、鼻の穴をふくらませて気持ちよさそうに息を吐いた。スイカやプリンも食べて、プハァー、と突き出たお腹を叩く。彼はげっぷをしてキリムの上に寝っ転がった。彼は年下なのに、中年親父のようだと彼女は思う。コウスケは最近、かなり太った。食った、食ったと赤い顔をして大きなお腹を撫でている。 「おいシズナ、こっち来いよ」 彼は両手を伸ばし、シズナを引き寄せようとした。 「嫌だよう」 「どうしてだよ、恋人だろ」 コウスケはシズナの手を掴んで引き寄せウエストに両手を回した。彼は酒臭い息を吐きながら、唇をすぼめてシズナの顔を追う。彼の唾が頬にべちゃりとつくと、彼女は手で拭った。 「今日は生理なんだよお」 「本当か? どれ」 彼はシズナのジーンズに両手を掛けてずり降ろそうとした。彼女は彼の両手から逃れようと身をよじった。 「どうしたんだよ」 「嫌」 「本当に生理なのか?」 シズナは黙った。コウスケの表情が曇った。 「今日は疲れてるの」 「そうっか」 彼は肩を落として言った。 「しょうがねえ。自分でやるか」 彼はズボンを脱いでキリムの上に座り、パンツも脱いだ。 「ねえ、キリムは絶対に汚さないでね」 シズナはティッシュペーパーの箱を彼のそばに置いた。コウスケは処理を終わって、汚れたティッシュペーパーを部屋の隅にあるごみ箱に投げて捨てた。 「これ買ったの?」 彼はズボンを穿きながらキリムを眺めた。シズナはどう言うべきか一瞬迷った。 「ううん、貰ったの」 「誰に?」 「勤め先のイラン人」 「あーそういえば絨毯売ってる店なんだって?」 「うん」 「胡散臭いお店じゃないの?」 彼は白いワイシャツを着ながら言った。 「まさか、真面目な人たちよ。やりたいことのために一生懸命に頑張っている人たちよ」 「ふうん。儲かっているのかな、給料もらってるの?」 「まだよ。始めたばかりだし。でもこんなに良いキリムを頂いたのよ」 「ふうん」 コウスケはキリムを触ってまじまじと眺めた。裏についているタグに産地と取引業者の店の名前がペルシャ語で書いてあった。 「ま、いいっか。好きにすれば。明日も朝早いし、早く寝るかな」 彼らはテーブルの上の鍋やコンロや食器類を片付け始めた。折り畳み式のテーブルも片付けて布団を敷いた。シズナはコウスケの布団から少し離れたところに自分のそれを敷いた。彼らは洗面所で歯を磨いた後、Tシャツとスウェットパンツに着替えて布団に潜り込んだ。シズナは頭まですっぽりと毛布を被り、コウスケに背を向けて海老のように丸まった。彼は立ち上がって電気を消し寝床についた。しんとした夜の空気が降りてきた。遠くから、時折車の走る音がかすかに聞こえてくる。彼女は身動きせず、じっとしていた。コウスケが言った。 「うちのお袋がな、早く実家に帰って来たら、って言うんだよな」 シズナは黙っていた。 「酒屋を継いで結婚したらって」 彼女はうずくまった姿勢のまま沈黙している。 「おい、聞いてるのか」 「あ、うん」 「結婚したらさ、頑張って働いて新しいマンションでも買いたいな。実家から遠くない所で、子供を作って育てたいよ」 コウスケが言い終わると静寂が訪れた。 「なあ、シズナ、俺と結婚しないかい?」 「嫌よ」 シズナは毛布の中でくぐもった声で言った。 「嫌だって? 俺たち恋人だろ?」 彼女は黙った。 「俺を嫌いか?」 「別に」 「そうか。もしまた失業したら、俺が家賃と食費出してもいいんだぜ。ここに引っ越したいなあ。俺のとこ、高級マンションだけど狭いし高いし、もっと広くて安いところに住みたいよ。ここならいいよ、二人で住めば助け合えるし」 シズナは寝息を立てて眠り込んだふりをした。 「どうしたんだよ」 彼は彼女の毛布の中に手を入れてきた。シズナの腹部に手を回し、引き寄せようとする。 「好きだよ」 コウスケは彼女の身体の上に覆い被さるように乗ってきた。 「嫌だってばあ」 シズナは彼を押しのけた。彼はキスをしようとシズナの唇を追う。コウスケは横に反らした彼女の頬にぶちゅぶちゅとキスをした。 「嫌だあ、べとべとするう」 シズナは頬を手の甲で拭う。コウスケはため息をついた。 「つまんねえの」 彼は自分の布団の上に横になった。 「もう眠たいの」 シズナはTシャツのしわを直し、少し下にずれていたスウェットパンツを引き上げた。毛布にくるまり、目を閉じてじっとしていたが、眠れなかった。コウスケも何度も寝返りを打っていた。彼の布団の擦れる音が、毛布の中のシズナの耳に届いた。いつの間にか、彼女は眠りこんでしまった。 翌朝、シズナが目覚めるとコウスケはもう出社して部屋にいなかった。いつもなら、風呂場でシャワーを浴びたり洗面所で歯を磨く音やテレビの音がするはずだった。この日は、テレビもついていないし風呂場も洗面所も使われた形跡はなかった。置き手紙もなく、ただ彼の布団が畳んで置いてあるだけだった。彼はもうこの部屋に来ないかもしれない、と漠然と思った。冷蔵庫を開けてみたが彼は何にも手をつけていない。果物もヨーグルトもジュースも昨夜のままだった。 パンを買うため部屋を出てコンクリート階段を降りていった。イラン人の住んでいる部屋の扉が目に入る。前に氷嚢を借りにきたアリと病人はどうしただろう。病人はどんな状態なのだろう。アリはまだ看病にあたっているのだろうか。氷嚢をまだ返しに来ないから、病状は良くないのかもしれない。シズナは表通りに出てコンビニエンスストアでパンを買って戻ってきた。コンクリート階段を上っていると、ふいにドアが開いてアリが姿を現した。目が充血していて顔色が悪い。彼はシズナに気づいて日本語で言った。 「この間、ありがとうございました」 「いいえ、どういたしまして。アリさん、大丈夫ですか。顔色悪いみたい」 アリは戸惑って生返事をした。 「え、ええ。寝てないです」 「病気の人は、大丈夫なんですか?」 「ううん」 アリは暗い目をして曖昧な返事をした。 「病院に行ったんですか?」 「う、ううん」 彼は隈のある窪んだ目を瞬いた。 「大丈夫かしら」 「僕、こおり買ってきますから」 アリは、靴をつっかけて歩いて行った。氷を買いに行くというのだから、まだ熱が下がっていないのだ。重病なのではないか、という不安がよぎった。部屋の前に来て扉を小さくノックしてみた。返答がないので引き返そうとしたが、気になってノブを回してみた。扉は簡単に開いた。 シズナは用心深く部屋の中を覗いた。汗や台所の洗剤や玉葱が混じった匂いがする。床には、日本語の新聞や雑誌が積んであった。日本人と暮らしている様子はなかった。アリの日本語が流暢なのを考えると、彼らは日本語が読めるのだろう。 絨毯が敷いてある奥の部屋に一人のイラン人の男がイスラム教の数珠を手に持って座っていて、シズナを怯えた目で見ていた。前にアリと一緒に病人を抱えていた男だった。男は彼女を探るような目で一挙一動を見つめている。彼女は彼を安心させようと、サラーム、アレイコム、とペルシャ語で挨拶をして微笑した。男はちょっと驚いた顔をして、脂の浮いた肉付きの良い顔を紅潮させた。眼窩の奥の大きな鳶色の瞳に、恥じらいとも卑屈さとも取れる色が浮かぶ。 「ねえ、病気の人は大丈夫なんでしょうか?」 彼女は日本語で尋ねた。男は黙って下を向いた。男の前に、寝床があり病人が寝ているようだった。 「ちょっと失礼します」 シズナは靴を脱ぎ、静かに部屋に入っていった。 奥の六畳の部屋の壁際に、頭に氷嚢を置いた男が布団の中で寝ていた。ぐったりと横たわっていて、彼女に気づく様子はない。 「どうしたの?」 シズナが、数珠を持って座っている男に日本語で囁くと、彼はたどたどしい日本語で答えた。 「あたまにシュヨウができました」 「シュヨウ? お医者さんが言ったの?」 「はい」 「大変じゃないの。入院しなくっちゃ」 シズナは寝床の中の男の方に身を乗り出した。男は寝ているのではなかった。瞼は薄く開いていて、瞳は薄い膜がかかっているようにぼんやりしている。彼女が覗き込んでいるというのに、何も見えていないように天井の方を見ている。唇をわずかに開けて乱れた呼吸をしていた。赤く火照った顔は汗でてかてかしていて、こめかみから汗の滴が垂れている。 「病院に電話をして来てもらいましょうよ」 彼女は布団のそばに置いてあった充電器から携帯を取ろうとした。 「いいんです」 男は手を伸ばし、シズナの手を押さえる仕草をした。 「ここより病院の方がいいわよ」 「はい。まえ、びょういんにいきました。ねるとなおるといわれました」 彼は病床に伏している男を見た。病床の男の呼吸は急に早くなり、布団の胸の辺りが上下している。 「寝ると治るなんて本当かしら」 男は切なそうに病人を見つめている。男の頭上の壁には、「FREE BIJAN」という文字とイラン人と思われる男の似顔絵が載っているチラシが画鋲で留めてあった。古びたテレビの横にも、「FREE BIJAN」という文字と日本語で<イラン人政治難民に自由を!>と書いてあるチラシの束が積んである。チラシの下には「Worker-Communist Party of Iran」と書かれた英語の冊子が覗いていた。シズナは冊子を手にとってパラパラとめくってみた。ホジャという名前で、イラン政府を批判する論文調の文章が載っていた。部屋の隅の本箱には、ペルシャ語や英語や日本語の本が並んでいて、すべて共産主義関係の本だった。シズナは不吉な予感を感じて尋ねた。 「ねえ、あなたたちはイランの反体制の政治活動に関わっているの?」 ペルシャ語で聞くと、男は怯えた顔をしてペルシャ語で答えた。 「ホジャはいろいろやっていますけど、私はやっていません。私はホジャを看病するために、ここに来ただけなんです」 男はしきりに首を振って頭を垂れた。イランでは、政府を非難する政治活動を行うことは、迫害と受難に身をさらすことであり、死刑になってしまうことを覚悟しておかねばならないことだ。 「ホジャさんは活動家なの?」 男はうなずいた。 「日本でも雑誌に投稿したり、集会で話をしたりしていました。ビジャンは難民申請に行った時に捕まって収容所に入れられたんですけど、ビジャンのためにも、ホジャはチラシを作って助ける運動をしていたんです」 ホジャがイランに強制送還されると危険な目に遭うだろうこと、不法滞在は自費扱いになるため治療費を支払う金がないことなど、シズナにも推測できた。 俯いて口をくいしばっている男の顔を見ると、八方塞がりの状況下で苦しんでいるのが推測できる。 「とにかく、このままではホジャの身体が心配よ。腫瘍が悪性ならはやく処置をした方が良いわ」 玄関のドアが開いてアリが帰ってきた。アリはシズナを見て少し驚いた顔をしたが、ビニール袋から氷やパンなどを取り出しながら日本語で言った。 「いっしょに食べませんか?」 「ありがとう。でももう仕事に行かなくっちゃ」 シズナは重い空気から逃れるように部屋を出て、静かにコンクリート階段を昇り自分の部屋に戻った。 パンと牛乳で朝食をとり、鏡の前で髪をといた。鏡には、化粧気のないソバカスのある顔が映っていた。茶色の瞳がこちらを見ている。 アリは本当にホジャを病院に連れて行くのだろうか。腫瘍だと言っていたが悪性だと早く処置をした方が良い。このままあの部屋で死んでしまうことがあったら、見殺しになってしまう。 シズナはキリムの手提げバッグを持って部屋から出た。階下に降りてホジャの部屋の扉をノックした。 「キエ?」 彼らはペルシャ語で誰かと聞く。彼女が名前を言うと、アリが部屋から出てきた。 「病院まで遠くないから、車で送っていくわ」 「でも……」 アリは困惑する。 「今日の診療代は私が払いますよ。早く先生に相談して」 「う、うん」 奥にいる病床のホジャが急に呻き声を上げ始めた。アリは急いで部屋に戻り、片方の男に話をした。ホセインと呼ばれるその男は、病人の上半身を起こした。アリは顔の横に洗面器を置き、背中をさすり始めた。ホジャは呻き声とともに嘔吐した。 「車取ってくるから」 シズナは部屋を出ていった。古アパートのある駐車場から車を運転してきてマンションの前に駐車した。アリの部屋に行くと扉の鍵はかかっていなかった。扉を開けて中を覗くと、アリとホセインがホジャを抱えて歩いてくるのが見えた。ホジャは相変わらず熱のために赤い顔をして汗をかき、虚ろな顔をアリの肩にもたせて千鳥足で歩いている。シズナは玄関を塞がないように廊下に出た。彼らはゆっくりとした動作でホジャに靴を履かせて立ち上がらせる。アリたちはホジャの両手をそれぞれの肩に回して、彼の歩調に合わせて歩いた。彼女は車に戻ってドアを開けた。 アリたちは後部座席のシートにホジャを担ぎ入れた。ホジャを真ん中にして彼らが座り、シズナは運転席に座った。 「大久保の菅山病院がいいです。お願いします」 とアリが菅山病院への道順を説明した。 ホジャはぐったりとシートにもたれている。ゆっくりと発進して、古アパートや倉庫や木造家屋の並びを抜けて表通りに出た。誰もが沈黙を保ったまま、車の走る振動に身を任せていた。 裏通りに入り、細い道を紆余曲折して、ようやく菅山病院に着いた。古びてはいるが大きな病院だった。黒ずんだ灰色の石造りの建物で、木々は排気ガスや埃で汚れていた。玄関の二、三段の階段を上がったところにポーチがあり両側に石柱があった。すりガラスの戸には「菅山病院」と毛筆の書体で書いてある。アリが戸をスライドさせようとしたが、レールに引っ掛かり手間取った。力任せに押すときしみを立てて戸が開き、彼らは病人を担ぎ込んだ。辺りを不安げに見回し、長椅子にホジャを横たわらせた。 シズナは日本人として事を速やかに運ばせようと思い、受付に行った。医者に呼ばれて、アリとホジャが診療室に入っていった。シズナは待合室にある公衆電話でスィヤに電話をして、事情を話した。政治活動をしているホジャというイラン人が日本にいる事はスィアも噂で知っていた。 「ホジャは正直で嘘つかない男だって聞いたことあるよ。ホジャはイランでもデモをして捕まったんだ。イランに強制送還されるとまずいよ。菅山病院なら外国人に良心的だから大丈夫だと思うけど。終わったら、早くお店に来てね」 わかったわ、とシズナは安堵して受話器を置いた。 アリが待合室に戻ってきて言った。 「にゅういんしろっていわれました」 「えっ」 病態と費用のことが気になった。シズナが受け付けで尋ねると、看護婦は診療室に入って医者と話をした後、戻ってきて言った。 「脳に膿瘍があって化膿してます。手術が必要です。すぐに入院してください」 自費扱いのために費用は高額だった。診察代をシズナはアリに貸した。アリは金を支払いながら受け付けの看護婦に入院費や手術代のことを尋ねる。その金額を聞いて二人は呆然となった。だが、手術をしないとホジャの命が危険だった。 「よろしくお願いします」 アリは看護婦に言ったものの、下を向いて険しい顔をしている。シズナは憂鬱になった。今日の診察代だけでかなりの紙幣を払ったのに、明日から彼らはどうするのだろう。どうするつもりなの? と聞きたかったが、シズナにはどうしようもない。彼女は逃げるように言った。 「仕事に行ってくるわ」 アリは脂汗の滲んだ髭面の顔を上げた。 「ありがとうございます」 彼はシズナの顔を見てか弱い声で言った。疲弊した顔だった。彼女はその顔を見ないようにして立ち去った。 車に戻って、エンジンをかけた。カセットデッキからペルシャ音楽が聞こえてくる。幾種類もの撥弦楽器が一斉に鳴り響く。女の甲高い歌声が聞こえてくると、停止ボタンを押して音楽を止めた。 高熱で苦しそうにしていたホジャの顔が思い浮かぶ。汗でてかてかとした火照った顔をして、瞼を薄く開き膜のかかったような瞳で天井を見つめていた。手術はうまくいくだろうか、政治・思想的理由から日本に逃亡してきたと思われる政治難民のホジャにとっては、このまま日本にいても、体が回復してイランに帰国したとしても、未来は険しいものだろう。自分にはどうしようもできない、とシズナは思う。きっと手術はうまくいく、その先もなんとかなるわよ、そう思って、これ以上ホジャの未来について考えないことにした。シズナは前方を凄むようにしてハンドルをしっかりと握った。 |
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