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| 夜の繁華街を通り抜けシズナの住んでいる街の商店街を走った。人通りは少ないが、飲食店や書店はまだ開いていた。すいている二車線の道路を乗用車やトラックがスピードを出して走っている。スィヤは速度を落としながら尋ねた。 「マンションどこ?」 マンションの近くまで行くとコウスケと鉢合わせになる可能性があった。 「ここでいいわよ」 「近くまで行くよ」 スィヤは言う。商店街から細い脇道に入り、外灯も人通りもない暗い路地を走る。シズナは家路の途中で言った。 「もう降りるわ」 スィヤは錆びた駄菓子屋の看板がある木造家屋の前で停めた。パジェロから降りようとした時、エンジンオイルの臭いがするのに気づいた。 「ねえ、変な臭いがするわよ」 「また、漏れてきたな」 スィヤは舌打ちをする。シズナは車体の底を覗くと、黒々とした機械類の奥から滴が落ちているのが見えた。後方のアスファルトに黒い染みが間隔をおいて続いているのが、テールランプに照らされていた。 「まずいよ。直さなきゃ」 シズナは驚いて言った。 「エンジン熱いから、待たないとだめだ」 彼は車に乗ったままため息をついた。腕時計を見てまた舌打ちをした。 「仕事の人が待ってる、困った……」 彼の眉間に皺が寄り始めた。 「ここに停めたら、まずいよねえ」 スィヤは木造家屋や古アパートが前後に続く細い道を見回した。一方通行で車一台分の幅しかない。ここに停めておくと自転車も通れない。 「近くに私のパーキングがあるの。車を入れておくから、スィヤ、仕事に行っていいよ」 シズナは言った。スィヤは彼女の顔を見つめて言った。 「車持ってるの?」 「うん、今はないけど」 「パーキングどこ?」 彼女が説明すると、彼はその道をゆっくりと走った。狭い路地を曲がり暗い木造家屋や倉庫の並びをいく。地上げをされて人が住んでいない空き家が多い。借り手のいない古アパート、老朽家屋、金網で囲まれた荒れ地などが暗がりに続く。波状鉄板を巻き付けたブロックの倉庫と木造アパートとの間に、地均しもしていない雑草の生えた空き地があった。 周りは高いブロック塀に囲まれていた。倉庫の裏側が上方に覗くブロック塀のそばには、クレーン車が寄せて駐車してあった。一台分のスペースの向こうに、焼却炉のドラム缶があり、背後には大きな樹木があった。そばに黒い街宣車が駐まっている。 スペースにパジェロを駐車してエンジンを切った。しんとした暗闇に包まれた。周りは雑木や藪に囲まれていた。駐車場の出入り口のそばに瓦葺きの古アパートが建っている。一階の部屋の窓ガラスは全て割れていて、外側から鉄格子がしてあった。一つだけしかない出入り口の扉も壊れていて開き放たれ、内部は真っ暗だった。そこから階段や横に延びる廊下にも通じているのだろう。二階には管理人が住んでいて、カーテンの閉まっている窓から明かりが漏れていた。スィヤが聞く。 「ここ安いの?」 「うん、二万円。でももうやめるつもり。車も使わないし」 「そうっか」 彼の携帯が鳴った。彼は通話ボタンを押して先方と話をした。遅れるかもしれない、と伝えて通話を切ると、急いで上着とセカンドバッグを手に持って車から出た。シズナも急かされるように外に出る。彼はドアにキーを差し込みロックしながら言った。 「ここ使わないの?」 「うん」 「じゃあ貸して、パーキング代払うから」 「まあ、いいけど」 「じゃあまた、仕事の途中だから」 「うん、また電話してね」 彼は走って路地に出ていった。彼は家屋から灯りが漏れている細い路地を走っていき、突き当たりの表通りに出た。シズナも後を追うように歩いていく。彼は左右を確認して、地下鉄の駅のある方向へ曲がった。後ろ姿が見えなくなったので、シズナは早歩きになった。表通りに出て、スィヤの姿を目で探した。少し先の十字路を曲がっている彼の後ろ姿があった。目の前をトラックが通り過ぎ、排気ガスで視界が覆われる。スィヤの後ろ姿はもうなかった。 シズナは蔦がはびこる古マンションに戻った。一階のアリの住んでいる部屋の窓から灯りが漏れている。病人はどんな様子なのだろう。彼女は横目で見ながら、コンクリートの階段を昇っていった。アリの部屋の扉が開いて誰かが出てきた。踊り場から振り向くと、この間アリと一緒に病人を抱えていた背の低いイラン人だった。彼はシズナを見ると、おずおずとお辞儀をした。彼女はペルシャ語で言った。 「ひどい病気なの?」 彼は答えに迷い唸るような声を出した。 「病院に連絡してみましょうか?」 シズナが言うと、彼は頭を横に振りたどたどしい日本語で言った。 「だいじょうぶ。こおり、あたまおくとげんきなる」 彼はマンションを出て、暗い夜道に消えていった。 翌日の昼、シズナは職を探すために外出した。途中で、駐車場に立ち寄ってみた。パジェロは消えていて、ドラム缶とクレーン車との間のスペースは空いていた。もう車を修理したのだろうか。よくあんな壊れた車に乗っているものだと少し呆れた。 電車を乗り継いで職業安定所に行き、仕事を募集している店や会社のファイルをめくっては探した。いつまでも無職ではいられない。弟に車を貸して少し報酬を貰っているが、これだけで食べていけるわけがない。貯金も残り少なくなってきている。節約するために携帯も手放した方が良いかもしれない。アルバイト情報誌や職業安定所で得た情報をもとに、渋谷や新宿の店を見て回ったが、彼女のセンスに合う所はなかった。通りがかりに素敵だと感じる雑貨店やブティックに入ってみたが、働き手を求めている所はなかった。夕方になり疲労して渋谷の街を歩いた。 スィヤと一緒に歩いた通りを歩いて、自動販売機で缶ジュースを買って飲んだ。太陽はビルの向こうに隠れてしまったものの、空にはまだ青みがあった。夕暮の空の下に、沢山の派手な人工光が点灯していた。少しは元気が出てきたので、スィヤの店に行ってみることにした。 <ペルシャ絨毯・シラーズ>の店内は明るく、天井でシャンデリアが輝いているのがショウウィンドウから見えた。手前には高価そうな絨毯が飾ってある。奥の壁にはSALEと書かれた赤い札のついた沢山の絨毯やキリムが掛かっていた。 隣りにあるスィヤの店も明るい。ガラス窓を通して、裸電球がぶら下がっているのが見える。床に雑多なものが置いてあり、作業服を着たスィヤが一人で動き回っていた。ビニールシートを鋏で切り、テープで壁に貼り付けている。 ガラス窓から彼を見つめた。彼はこちらに気づきもせず、しゃがんでペンキの缶に刷毛を入れている。彼が立ち上がった時、ふと目が合った。スィヤは刷毛をペンキの缶に戻し、木製の扉を開けて出てきた。彼のズボンやシャツはペンキや埃で汚れていた。 「どうしたの?」 「うん」 「仕事は?」 「してないの」 「入れよ」 「うん」 シズナは彼に従って店内に入った。壁はエンジ色に塗りかけだった。脚立、ペンキの缶、大工用具、木板、煉瓦、ビニールシートやテープ、新聞紙、布、刷毛などが床に雑然と置いてある。 「朝、パーキングにパジェロがなかったわ。どうしたの?」 「修理して乗って来たよ。ちゃんと直ったよ。見る?」 「結構よ。それよりペンキ、手伝っても良いわ」 「そう?」 彼はシズナの顔を見つめた。 「うん。任せて」 彼女が威勢良く言うと、スィヤは男物の大きなシャツを持ってきた。汚れるからこれ着て、とシズナに手渡すと、ペンキの缶を手に持って壁を塗り始めた。彼女は洋服の上から、シャツを着た。 「扉や窓枠はどんな色にするの?」 「グリーン」 「ペンキどこ?」 「あそこ」 スィヤが指差す。彼女は缶を開けてみた。エンジ色の壁に似合う緑色だった。ビニールテープで塗らない所との境界を縁取り、刷毛で扉の内側を塗り始めた。ワニスの匂いが鼻についたが、気にならなかった。扉をペンキで完全に塗ると、部屋があか抜けた雰囲気になった。シズナは壁際の板張りの床に煉瓦を積み上げてみた。積み方によって部屋の印象が変わる。不規則に積んでみたり、一列に積んでみたりした。 「部屋の真ん中に丸いテーブル置いて、アクセサリーや小物を置くんだ。あっちもテーブルを置いて、こっちは棚を置いて……」 彼は四方の壁を指差しながら言う。彼らは日本語で会話をした。スィヤは日本語の単語が見つからない時には、ペルシャ語で喋った。 「それにはまず床を掃除しなくっちゃ」 とシズナは言った。 「そうだね」 彼らはビニールシートや新聞紙とペンキの缶を手に持って奥の部屋に行った。シズナは部屋の隅に置いてあった掃除機を担いで売り場の部屋に行く。スィヤは大工用具をかたづけて屑を拾う。彼女が掃除機のスウィッチを押すとスィヤが言った。 「ねえ、ペンキが乾いてからが良いよ」 「そうね」 「今日はもうお終いにするよ。ここでアルバイトできる?」 「うん」 シズナに迷いはなかった。 「コウカブに紹介するよ。店長なんだ」 二人は電灯を消してお店を出た。<ペルシャ絨毯・シラーズ>にもCLOSEDのカードが掛かっていたが、電灯はついていた。二人はガラス扉を押して入っていった。レジスターの前にコウカブが立っていて、モジダバが屈んで帳面に何かを書いていた。モジダバは顔を上げ、スィヤとシズナを見ると、やあまた会いましたね、と笑った。スィヤはコウカブに言った。 「明日からシズナもここで働いていいかな」 コウカブはシズナの顔や洋服をじっくりと見ながら言った。 「アルバイトならOKだよ」 彼は時給などの条件を言った。 「よろしくお願いします」 シズナはお辞儀をした。 「こちらこそ」 コウカブもお辞儀をして、彼らを奥の部屋に促した。そこは事務室になっていて、パーマをかけた細かい巻き毛の日本人の中年女性がパソコンラックの前に座りコンピュータを操作していた。コウカブは言った。 「グリスターンを手伝ってくれる人だよ。オカ、シズナさんだ」 「よろしくお願いします」 シズナはお辞儀をした。 「コウカブの妻のユキコです」 と彼女も頭を下げた。 「ペルシャ語もできるんだよ」 スィヤが言う。ユキコは微笑んで言った。 「イランに興味のある人なら大歓迎よ」 「じゃ、スィヤのお店をお願いします。明日履歴書を持って来てください」 コウカブは日本人が話すような発音で喋った。シズナは、今持っています、と履歴書をコウカブに手渡した。彼はそれを見ながら言った。 「前にもお店の仕事をしていたんですね、きっと慣れてるね」 「はい。任せてください」 「これから輸入するもの、いろいろ見せてあげるよ」 スィヤは数枚の写真を見せた。大小のキリムや絨毯が敷いてあるもの、敷物がロール状に巻いてあるもの、トルコ石や銀のアクセサリー、水たばこ、レリーフ、大理石の置物、花柄模様の大きな金属の箱などが写っていた。 「素敵じゃない」 シズナが言うと、スィヤは笑ってうなずいた。 「明日はシナガワの支店に一緒に行こうよ。倉庫にある商品を持ってくるんだ。朝早いけどいい?」 「いいわよ」 シズナの心は弾んだ。コウカブとユキコはうなずいた。運転免許証について問われたので、彼らに見せるとユキコはコピーをとった。 スィヤとシズナは店を出て駐車場に行き、パジェロに乗った。スィヤがキーを差し込み回すと一度でエンジンがかかった。 「車直ったの?」 「うん、もう大丈夫だよ」 人や車の通りが少ない深夜の商店街を走った。街灯の明かりと自動販売機の電灯が、店のシャッターが閉まった暗い路上を照らしていた。十字路までくると、スィヤは言った。 「どこに住んでるの?」 「う、うん」 シズナが戸惑っていると、彼は言った。 「この辺だよね?」 「うん」 履歴書を出したのに、住んでいる所を言わないのも変だった。コウスケと鉢合わせになったら店の人だと言えば良い。実際にそれ以上の関係ではないのだから。彼女はマンションの在処を説明した。 地上げをされた住宅街の細い路地に入り、化粧合板やパネルや薄い鉄板でできた家々を通り過ぎた。角を曲がりブロック塀に沿って自動車を停めた。 外灯も人通りもなく、下向きにした前照灯の明かりだけが暗い路地に伸びていた。前方には、蔦で覆われたマンションが弱い明かりを受けて佇んでいる。辺りは暗くひっそりとしていた。ブロック塀の向こうには雑木や廃れた工場の屋根が見えた。反対側は古びた木造家屋で二階の窓が明るい。カーテンが半分だけ開いていた。 誰かが見ているかもしれない、とシズナは思った。コウスケがいつ訪ねてくるかわからなかったが、シズナはもっとスィヤといたかった。シズナはじっとしてスィヤの方に身体を向けていた。 突然スィヤの携帯が鳴った。彼はセカンドバッグから携帯を取り出し、スペイン語で話した。シズナにはスペイン語はあまり理解できなかったが、プライベートな会話であることはすぐにわかった。誰? と彼女が言いかけると、スィヤは慌てて、黙って、と指で口を塞ぐふりをした。シズナが黙ると、彼はスペイン語でまくし立てて携帯を切った。 「今の誰?」 「あ、うん」 スィヤは目をしばたたいて携帯をセカンドバッグにしまって言った。 「彼女だよ」 「ふうん」 「シズナは彼氏いるの?」 「うん、まあね」 「一緒に暮らしてるの?」 「ううん。暮らしてないよ」 シズナは目を落とした。コウスケについて触れたくなかった。 「スィヤは彼女と一緒に暮らしているの?」 「うん」 また彼の携帯が鳴り始めた。彼女は落ち着きなく言った。 「じゃまた明日ね、今日はどうもありがとう」 車から出ると、スィヤは携帯を耳に当てながらこちらをちらりと見て手を振った。彼は身振り手振りで相手と話し始めた。シズナは振り返らないで、自分のマンションに戻っていった。 |
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