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| 翌日も、仕事を探すために街を歩いたが、シズナを雇うところはなかった。帰路につく途中でアルバイト情報誌やジュースや野菜や肉などを買い、両手にビニール袋を下げてコンクリート階段を上っている時、下方からペルシャ語で喋る複数の男の声がした。振り返ると、二人の体格の良いイラン人の男が、赤い顔をしてうなだれている男を両脇から抱えて、一階の彼らの部屋に向かっている。抱えられている男は意識が朦朧としていて自力で歩けないのか、頭を垂らし、つま先を軽く地に着けてぶらりと進行に合わせて動かしていた。抱きかかえている片方の男が、シズナを見上げた。先日見かけた髭を生やした男だった。男はシズナを見ると後ろめたいような目つきで顎を引いてお辞儀をした。シズナは日本語で言った。 「どうしたの?」 病人を抱えた両方の男がシズナを見た。髭の男が下手な日本語で言った。 「ともだち、あたま、いたいよ」 彼らは病人を抱きかかえるようにして部屋の中に入っていった。シズナはコンクリート階段を上がって自分の部屋へ戻った。 食事を終えて食器を洗っている時、扉をノックする音が聞こえた。コウスケなら、こちらが黙っていれば、俺だよ、と言うはずだった。相手は間を置いてノックした。誰だろう、とシズナは身を硬くして黙った。再びノックするので玄関に行く。扉は鉄製だが錆びていて、ドアチェーンもドアスコープもなかった。 「誰ですか?」 「わたし、アリです。さっき会いました」 外国人独特の訛りがある日本語が聞こえてきた。階下の住人のイラン人だろう。シズナは扉を開けずに日本語で言った。 「何かご用ですか?」 「友達が病気なんです。頭が熱いから氷が欲しいです」 アリは慣れた発音でよどみなく喋った。 「ちょっと待って」 シズナは台所に戻って冷蔵庫から氷を取り出し氷嚢に入れた。扉を恐る恐る開けると、先ほどの髭の男が少し距離を置いて立っているのが見えた。悪意のない茶色の瞳がこちらを見ている。シズナは扉をさらに大きく開けて氷嚢を差し出した。 「ありがとうございます」 アリは氷嚢を受け取った。 「どんな様子なんですか?」 「頭が痛くて、口から食べ物を出します」 「救急車でも呼びましょうか?」 「いいえ、大丈夫です」 「そう。お大事に」 アリはお辞儀をして暗がりの階下に降りていった。病人を抱えたイラン人たちの部屋は、この真下だった。今頃、熱にうなされているのだろうか。どんな病気なのだろうか。彼女は考えながら台所に戻り皿を拭いた。 入浴を終え、布団を敷いて横たわっていると、スィヤの顔が思い浮かんだ。彫りが深くて浅黒い顔をしていた。逞しいのに、少年のように澄んだ瞳をしていて輝いていた。彼は、もうすぐ店を開いて、イランの絨毯や雑貨を売るらしい。日本でずっと商売をしたいと言っていた。 彼は、どんな人なのだろう。シズナがやりたいと感じていた分野の仕事を、異国から来て言葉のハンデがありながらも成し遂げようと努力しているようだった。幼さが残っている顔つきだったが身体が引き締まっていて意志が強そうだった。 このままこちらから連絡をしなければ、お互いに顔も名前も曖昧なまま忘れてしまうだけだろう。 シズナは起きて、バックの中からスィヤの電話番号が書いてある紙切れを取り出し、電話をしてみた。すぐにスィヤがペルシャ語で出た。 「アロー」 「スィヤ?」 彼は一瞬黙った後、明るい日本語で答えた。 「はい、はい。スィヤです」 「私、誰だかわかる?」 「シズナさん」 彼女は嬉しくなって日本語で話し始めた。 「憶えていたの?」 「憶えてますよ。元気ですか?」 スィヤも流暢な日本語で話した。 「まあね」 「今、一人ですか?」 「うん」 「明日は暇ですか?」 「う、うん」 一瞬彼女は構えた。 「昼にイランショップに行くんだけど、一緒に行きませんか?」 「そんなのあるの?」 「渋谷にありますよ」 「行ってみたいわ」 シズナははしゃいだ。昼間に外で会うということに安心した。待ち合わせの場所と時間を決めて電話を切った。何を着ていこうか。どうせ仕事はないし好きな服を着ていこう。 押入を改造したクローゼットから、ジーパンと綿シャツとザクロや茜などの草木染めの糸で織ってあるキリムの手提げ鞄を出した。これらは前の職場のお店で買ったものだ。好きな衣服や鞄を身に着けると気分が晴れる。 いつもより多くの化粧水を顔につけてクリームを塗った。子供時代に戻った気分で手足を伸ばし、布団の中に入った。明日は良い日でありますように、とスィヤの浅黒くて彫りが深い顔を思い出しながら目を閉じた。 シズナの家から最も近い地下鉄の駅が待ち合わせ場所だった。スィヤもそこから遠くない所に住んでいるらしい。昼過ぎに約束の場所に着くと、彼は前に見た時とは打って変わり、茶色のスラックスに白のシャツという改まった格好で待っていた。あれから何日も経っていないのに急に大人びた雰囲気がした。 彼らは渋谷に行った。ブティックやカフェやレストランのある表通りを歩き、飲食店の看板が並ぶ古い雑居ビルの前で立ち止まった。一階はレストランで二階はパブだった。最上階にいたる六階まで飲食店の薄汚れた電気の看板が連なっている。ここだよ、とスィヤは地下への階段を指差した。階段の入り口の壁に、イランショップとペルシャ語で書かれた色褪せた紙が貼ってあった。彼はコンクリートの階段を降りていき、シズナも従った。 扉を押し開くと、香辛料や酸っぱい匂いが鼻をついた。所狭しに食料品、雑誌類、本、カセット、CD、が並べてある。棚には乾燥野菜や乾燥レモン、豆、ターメリックなどの香辛料、瓶詰めのキュウリやカブ、缶詰、スープなどのレトルト食品などが積まれていた。 シズナはそれらの棚を見て回った。白いブロック状のチーズやお菓子もあった。スィヤはペルシャ語で書かれた新聞や豆や乾燥野菜をレジスターに持っていった。 彼はシズナの隣りにやって来て彼女の見ていたギャズというピスタチオ入りのヌガーを手に取り、食べたい? と聞いた。うん、と答えると、スィヤはそれもレジスターに持って行った。彼の後を追っていくと、スィヤは勘定をしていた。シズナは菓子の代金は自分で払った方が良いと思い、鞄から財布を取り出した。スィヤは彼女が金を払おうとするのを押し止めた。スィヤの好意に甘んじて、財布を鞄にしまった。 イランショップを出ると、夕暮れになっていて気温も下がり、電気の看板やネオン管や街灯に明かりが点いていた。暗い藍色の空に夕陽の尻尾が残っていて、西側の空がうっすらと茜色になっていた。ビルの屋上では、蛍光灯の集まりでできているソニーという文字の看板が片端から明るくなったり暗くなったりして波のように移動していた。壁面には巨大なスクリーンがあり、パソコンのデスクトップが映し出されている。隣りのビルにはガラスのシリンダーのような通路が縦に伸びていて、人工光で煌めくエレベーターが上下に行き来していた。 交通は渋滞していて、フロントライトやテールランプが列をなしていた。車の騒音、人々の話し声や叫び声、音楽、携帯の着信音、サイレン、電車の音など雑多な音が渦巻いている。流行の服を着た人々や学生風の若者がほとんどだった。空が暗くなると人々や車の交通量がさらに増え、街が活気づいた。 大通りに出て、横断歩道の青信号を待っている時、スィヤは、おいしいよ、とギャズの包みを手渡した。 「ありがとう」 「これから仕事なんだ。シズナは?」 「う、うん……別に……」 流暢な日本語で聞かれて、失業中でぶらぶらしているのが恥ずかしくなった。信号が青になり、雑踏の中を歩き始めたスィヤを見失わないようにそばについた。 「地下鉄の駅まで送るよ」とスィヤ。 闇が街の隅々まで垂れ込んできたが、雑多な人工光で道路は明るい。二人は通行人にぶつかりそうになりながら歩いた。シズナは聞いた。 「どんな事をしているの?」 「店の内装工事をしたり、絨毯やキリムやアクセサリーやいろんなものをイランから輸入して、店に運んでいるんだ」 彼は淀みなく日本語で喋る。 「へえ」 シズナはスィヤの横顔を見た。鼻が高くて、前方をしっかりと向いている彼が格好良く見える。 「僕のお店見たい?」 「うん、見たいわ」 シズナは嬉しくなった。急にギャズを食べたくなり、封を切って箱の中から白いヌガーを取り出して口に含んだ。 「歩いて行こう、近くなんだ」 二人は繁華街を抜けて、公園のそばの並木道を歩いた。路上でアクセサリーや置物などの雑貨や衣類を売っていたり、絵描きが通行人の似顔絵を描いたりしていた。マイクロバスを改造した移動式の屋台では、スブラキやジュースを売っている。 彼は大通りから脇道に逸れた。鉄筋コンクリートでできた近代的なビルや大きなマンションが連なり、会社のオフィス、ブティック、雑貨店、ヘアーサロンがあった。彫刻を施した木製看板、イラストを描いたコンクリートの壁、蔦の巻き付いた白壁などが目に入る。タイル張りのビルの一階に、<ペルシャ絨毯・シラーズ>と書かれたショウウィンドウのある店があった。大小の様々の絨毯やキリムが飾ってあり、奥の壁にもロール状に巻いて立て掛けてあるのが見える。 レジスターの前にイラン人の背の低い太めの初老の男が立っている。スィヤはガラス扉を押して入っていった。スィヤと初老の男はペルシャ語で親しげに挨拶をした。初老の男はシズナとスィヤを交互に眺めた。スィヤは彼に言った。 「友達だよ」 太ってはいるが骨太の初老の男はシズナに笑いかけ、慣れた日本語で言った。 「はじめまして。コウカブです」 白髪の混じった灰色の髪をしていて肌は色白で少々受け口の顔だった。憎めない雰囲気が漂っている。 「シズナです」 「スィヤが女の子を店に連れてきたのは初めてですよ」 「そうなの?」 シズナはスィヤを見た。彼は笑っていた。店に初めて連れてきた女の子が自分だというのが、嬉しかった。 「彼女、ペルシャ語話せるんだ」 スィヤが言うと、コウカブは少し驚いた。 「少しだけです」 シズナは照れた。コウカブがペルシャ語で挨拶をした。シズナがペルシャ語で答えると、彼らは嬉しそうにうなずいた。しばらくペルシャ語で会話をしていたが、彼女のペルシャ語より彼らの日本語の方が流暢だったので、三人は日本語で話し始めた。 「スィヤには、今度隣りのお店をやってもらうんですよ」 「隣りのお店?」 シズナはスィヤを見た。彼はうなずく。 「新しくオープンするんだ。店の名前は、グリスターン」 「へえ素敵ね」 奥の部屋から、モジダバがやってきた。 「あら」 「おう、元気ですか」 「元気よ。絨毯の仕事をしてたのね」 「そうですよ。スィヤと絨毯運んでます」 シズナは壁に掛かっている絨毯を見た。沢山の絨毯やキリムが掛かっている。その中の、イランのモスクの天井のタイル装飾を連想させる絨毯に目が留まった。瑠璃色の網目模様が放射状に広がっていて、こちらまで包み込まれるようだ。精緻な柄と織目、気品のある艶やかさ、その力強さと美しさに圧倒された。 「それはシルクで草木染めです。制作するのに何年もかかっています。途方もない時間とエネルギーがかかっているのですが、織り手は無名で貧しい人たちです」 とスィヤが説明する。値札には産地と素材と値段が書いてある。とても高価だ。 「スィヤのお店では安い絨毯や雑貨を売ります。古い絨毯の買取もしますよ」 コウカブが言いスィヤを見た。スィヤは得意げにうなずいて言った。 「ペルシャ絨毯は高価なイメージがあるでしょう。でも本当はいろんなサイズの絨毯を沢山、床や畳の上に敷いて貰いたいんですよ。もっと気軽に使ってもらいたいんです。だから安いペルシャ絨毯を紹介していくつもりなんです」 シズナはスィヤを見上げて言う。 「あまり収入がなくても買えるのかしら」 「もちろんです。アパート暮らしの学生の方でも買える値段です。しかもずっとずっと先まで使える。お得ですよ」 「素晴らしいわ。絨毯を見る目もあるんでしょうね」 「もちろんですよ。絨毯商人の資格を持っているんだから」 スィヤは彼女を真っ向から見て言った。 「スィヤの家は絨毯屋ですよ」とコウカブ。スィヤはうなずいた。 「僕は子供の時から家の絨毯の仕事を手伝っていました」 「へえ」 余分な脂肪のない浅黒くて彫りの深いスィヤの顔がますます精悍に見えた。 「スィヤはよく働くよ。正直で良い男だよ」 コウカブは言った。モジダバがうなずいている。スィヤの携帯が鳴った。彼はペルシャ語でやり取りした。相手は絨毯を見に来て欲しいと言っているらしく、スィヤは絨毯の状態を尋ねていた。彼は携帯を切ると、行ってきますよ、とコウカブにペルシャ語で言った。スィヤはシズナに言った。 「途中まで送るよ」 シズナはコウカブとモジダバに別れを告げて、スィヤと店を出ていった。すっかり夜になっていて、向かいのブティックの店内の照明も消え蛍光色の衣装を着たマネキンだけがライトアップされていた。<ペルシャ絨毯・シラーズ>の隣りの店舗は、真っ暗でがらんとしている。シズナは言った。 「いつオープンするの?」 「もうすぐですよ。今修理してきれいにしているんだ」 スィヤは立ち止まってガラス窓から暗い室内を眺めた。床にロール状の壁紙やペンキ缶などが置いてあるのが見える。彼らは隣りにある駐車場へ歩き出した。 パジェロの助手席のドアを開けると、消臭剤と機械類が入り混じった匂いがした。彼は運転席でエンジンキイを回した。すぐにエンジンの回転が止まってしまう。何度も繰り返した後、ようやくエンジンがかかった。カセットプレーヤからペルシャ音楽が聞こえてくる。飾りけのない撥弦楽器の弾ける音だった。時代を遡った遠い沙漠の場所から聞こえてくるような懐かしい繊細な金属の音色だった。 駐車場の出口に向かおうとするが、何度もエンジンが止まり、その度にシズナは前のめりになった。ごめん、とスィヤはエンジンをかけ直した。またエンジンが止まり二人は前のめりになった。 |
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